アッツ島上陸後の陸軍兵士たち(昭和17年6月)
樋口司令官はアッツ島の山崎部隊へ増援の約束をしたものの急転直下、大本営の命令で取りやめとなってしまいました。
なぜ大本営では一時は増援を決定していたにかかわらず、アッツ島放棄という方向に突然転向してしまったのでしょうか。これは海軍が援軍のための船舶の提供や輸送を断ったことが原因でした。
海軍ではガダルカナル・ニューギニア方面の作戦で艦艇・航空兵力を消耗し、アリューシャン方面の作戦には増援の余裕が無くなっていたことが挙げられます。
「援軍はきっと来る。そのために東浦要地だけは確保しろ」
樋口はつい3日前、山崎隊長にそう打電しました。しかしその舌の根も乾かぬうちに、
「増援軍派遣はご破算になった。お前はあきらめて死んでくれ」
と言わねばならない指揮官など、世界のどこの国にいるのか。まるでペテン師ではないか。
かつてオトポールで、自らの地位を危うくしてまでユダヤ人の命を救った人物が、今度は自分を信じて戦っている人々の命を見殺しにしなければならない。樋口は涙を流して、その命令を受け入れました。その場で号泣したとも言われています。
山崎隊長も増援中止の電報を受け、愚痴一つなく状況を受け入れ、アッツ島守備隊は玉砕への道を辿りました。
札幌護国神社の境内に建立された「アッツ島玉砕雄魂之碑」
しかし樋口もアッツ島放棄だけでは引かず、交換条件を出し大本営との駆け引きを試みました。それはアッツ島を犠牲にする代わりに、キスカ島の即時撤退を認めさせることです。大本営は海軍側と交渉した結果、この条件はついに承認されました。
こうして1943(昭和18)年7月、「ケ号作戦」と称されるキスカ島撤退作戦が開始されました。海軍の巡洋艦「阿武隈」(あぶくま)を旗艦とする艦隊が、キスカで米軍との交戦もなく、しかも陸海軍将兵を一人残らず撤収させました。戦史上も稀に見る成功した撤退作戦と言われます。
キスカ島守備隊が帰還後の昭和18年9月、アッツ島守備隊将兵の合同慰霊祭が札幌市で行われました。
慰霊祭に出席した樋口は、別人のように変貌していました。80キロ近い体重は60キロまでに落ち、丸みを帯びた顔には頬骨が突出し、目ばかり異様に光って焦燥しきっていました。
多くの部下を殺したという苦悩が精神的負担となり、樋口の容貌を変えてしまったのでした。
戦後、樋口が残した『樋口メモ』には、その当時の心境がこう記されています。
「私は、私の長い生涯で、山崎に死んでくれといったあのときほど、辛かったことはない。日本が敗れ、陛下の御詔勅をきいたときも、辛かったが、それよりはるかに大きく、私の心に重くのしかかってきた。
私はどうやら長く生きすぎたようだった。本当のことを告白すれば、自刃したかった。私の死によって、もとより山崎部隊将兵が救われるべくもない。しかし、部下に死ねと命令した上官が、おめおめ生きてはいられないと思った。
けれども、私は死ねなかった。死ぬのが恐いからではない。しなければならない仕事が、あったからだ。キスカ部隊の撤退である」