
昭和12年7月、ライヒスアウトバーンを視察する樋口大佐(左)。右側は大島駐独武官。
1942(昭和17)年8月、樋口季一郎は北海道札幌市郊外にある月寒(つきさっぷ)に北部軍司令官として着任しました。しかしこれが、彼の任務として苦渋の決断を迫られることになった端緒でした。
この頃既に米国領のアリューシャン列島に位置するアッツ島・キスカ島は、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦において、ミッドウェー島攻撃と共に日本軍が両島に上陸、占領されていました。
アリューシャン列島の西端に位置するアッツ島・キスカ島。一年を通じ寒冷で雪と氷に覆われた孤島。
当時、アッツ島には穂積松年陸軍少佐率いる支隊、1,143名が島の防衛に当たっていました。穂積支隊はのちにアッツ島からキスカ島へ守備のため転進し、がら空きになったアッツ島へは北千島の米川部隊が移駐してきました。
ところがその守備隊に対し、日本軍は島の周囲の制空権、制海権を米軍に奪われ、かろうじて潜水艦で細々と補給を送っている状態でした。
樋口司令官はこの閉塞的状況に、かねてから戦線を縮小するために両島から撤収すべきと考えていました。しかし大本営ではあくまでも島の確保に固執したため、樋口は島の防御には少なくとも1万5千人分の兵力増強が必要と大本営に具申していました。
キスカ島は米軍の前進基地により近かったため、海軍側では米軍の上陸作戦はアッツ島ではなく、まずキスカ島から始まるだろうと予測していました。そのため兵力はキスカ島により重点を置かれていました。
それに対し、樋口は米軍の上陸はまずアッツ島からではないかと推測していました。キスカ島を飛び越えて最初にアッツ島を攻略すれば、キスカ島は退路を断たれ完全に孤立するからです。彼の鋭い予見は的中し、その後米軍はアッツ島から上陸してきました。
「閣下の予言は当たりましたね。閣下は、まるで大道易者みたいです」
と部下に称賛され、樋口は
「なにをいうか、こいつ」
と、大道易者といわれて苦笑していました。
そんな戦況下の1943(昭和18)年3月、2,650名が駐留するアッツ島の守備隊長として山崎保代(やすよ)大佐が就任しました。家族には遺書を残しての覚悟の赴任でありました。
山崎保代(1891-1943)、享年51歳
同年5月12日、樋口の予想通り、米軍は攻撃を始めアッツ島上陸作戦を開始しました。米軍進攻の知らせを受けた樋口は、約4,700名の兵力を緊急輸送する準備を行い、大本営も海軍増援の派遣を決定しました。
米軍の激しい攻撃が続くアッツ島では、樋口司令官からの増援の電報を受け取りました。アッツ島赴任前、山崎大佐は樋口と面会していました。
「アッツには、かならず増援部隊をむける。これは男として約束する・・・」
山崎はこの樋口の言葉を素直に信じ、全幅の信頼を寄せていました。約束通りの増援の知らせを受け、アッツ守備隊の士気も一気に上がりました。
ところが5月20日、驚くべき電報が大本営から樋口の元へ届けられました。「アッツ島への増援を都合により放棄する」というものでした。アッツ島の守備隊は事実上の見殺しにするということです。
札幌の参謀室は激しい衝撃に、水をうったように静まりかえりました。やがて居並ぶ参謀たちは激高し、大本営への罵倒が始まりました。
「許せん!中央の背信行為は、絶対に、許すことはできん」
「アッツの山崎部隊は、どうなるのだ。ちきしょう。バカにするのも、いいかげんにしろ」
いきり立った参謀たちは長靴で床を踏みならしました。