海軍の慣習 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


 海軍でのしきたりや特質に関する話を集めました。

 

 

■飲 酒

 

 海軍では未成年でも酒は禁止されていませんでした。そのため出撃前夜に行った酒盛りでは、未成年でも上官に半ば無理に飲まされましたが、戦闘への緊張感で酔えなかったということです。


宴会 

 

 

■水の出ない生活

 

 軍艦内での生活では、水は決められた食事時間以外には出ないよう、元栓が占められていました。もちろんお茶も飲めません。

 

 戦闘状態の際、艦内は焼け付く炎天下や蒸された空気、対空戦闘による緊張などで、戦闘要員が脱水症状に陥ることもしばしばありました。しかし負傷兵に水を提供しようとしても容易に汲めないため、戦闘員も非常に困ったようです。

 

 

■復員と解員

 

 軍隊を出て社会に復帰することを復員と言いますが、これは陸軍の用語で海軍では解員と呼ばれていました。

 

 しかし戦後、海軍省は名称を解員省ではなく第二復員省と改められ、出身者は海上保安庁から海上警備隊に改組され、最後に海上自衛隊が創設されました。


第二復員省 
 
 

 

■砲術学校には大砲、艦砲がある

 

 海軍の砲術学校は横須賀と、千葉県の館山にありました。館山では陸戦の大砲を教え、横須賀では軍艦での艦砲を教えていました。

 

 陸戦の大砲は車輪がついており、撃つと反動で後ろに下がります。艦の艦砲には車輪はありませんが、その代わり撃った時の衝撃は海面が吸収します。

 

 

■鎮守府同士の負けられない闘い

 

 陸軍と海軍の仲が悪かったのは有名ですが、海軍内でもまた縄張り争いが存在していました。中でもなぜか、横須賀と佐世保の仲が悪かったそうです。

 

 誰がどこの鎮守府に所属しているのかは、軍帽のペンネントの艦名を見てわかります。海軍兵が多く集まる港では、佐世保兵と横須賀兵が出くわすと、必ずどこかで乱闘騒ぎが起こりました。



「横須賀海兵団」のペンネント 

軍帽に「横須賀海兵団」のペンネント。

 


 

■海軍軍人がモテた理由

 

 元海軍兵であった方が海軍を志願した動機です。

 

「水兵さんたちが街を歩く。上官も部下も、区別なくにこやかに並んで歩くんです。そんなの陸軍では考えられない。陸軍は革靴や軍服がダサくて、もう汗臭いのなんの。映画館に陸軍の兵隊がいるだけで臭かった。

 

ところが、水兵さんは違う。すれ違ったらオーデコロンのにおいがするんですよ。もう、『コロン』と参ってしまった。憧れました」

 

 海軍軍人がモテたという逸話はよく聞きます。兵学校でも「紳士であれ」という英国海軍譲りの教育を行っていたこともあり、そんな海軍文化は一般の日本人から見ると浮世離れしていたと評されます。

 

 当時一般男性がフレグランスをまとうという事は、多分あまり普通ではなかったでしょうから、こんな垢抜けた印象も海軍志願者を募る上での売りになったのかもしれません。

 

しかし憧れて入ってみれば地獄だったという話も多いです。こんな一側面が、「海軍は外面だけはいい」という批評につながっているのかもしれません。

 

 

■内火艇での作法

 

 内火艇は艦との行き来をする際に司令官や艦長が乗ったりする船で、羅針盤が設置されていました。そのため軍刀が磁気に影響を与えますので、内火艇の総指揮官は必ず軍刀を外していました。



内火艇 

内火艇

 

 

『海軍よもやま物語』、小林 孝裕、光人社、1980

『下士官たちの戦艦大和』、小板橋孝策、光人社、1985

『戦艦大和最後の乗組員の遺言』、八杉康夫著 粟野仁雄構成、ワック、2005