彰古館 -日本陸軍の医療情報史料室 【中編・世田谷区】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


陸上自衛隊の三宿駐屯地にある彰古館の見学、中編です。



「アンビュランス」 

19世紀などの昔には、欧州では写真のように持ち運びできる医療カバンを「アンビュランス」(Ambulanceと呼んだそうです。今ではアンビュランスは救急車のことを指します。

 

 「アンビュランス」の語源を調べてみたら、ラテン語のAmbulare(歩く)が元になっているようです。ラテン語はすべてのヨーロッパ言語の源ですから、それが「移動する」という単語に使われるようになって、「救急車」になったようですね。



展示ケース 

右手の展示ケースには「各戦役での摘出弾」とあり、被弾した患者の体内から摘出した弾が陳列されています。それらの弾丸はみんな曲って変形していました。

 

 日露戦争で乃木大将の長男である乃木勝典(かつすけ)から摘出された弾も展示されていました。彼はロシアのダムダム弾という弾に被弾しこれが致命傷となり戦死したのですが、ダムダム弾は被弾すると体内で炸裂し、被弾者は苦しみながら死ぬという非人道的な兵器でした。

 

 やがて1899年にはダムダム弾禁止宣言が出され、戦争での使用は禁止されていたのですが、ロシアは日本がこの宣言に参加していなかったため日露戦争(19041905年)で日本軍に対し、禁止されていたダムダム弾を使用したそうです。

 

 このような逸話を訊くと、何となくロシア特有の論理が見えてくるようです。



刀による負傷者 

 1877(明治10)年の西南戦争の際に、刀による負傷者を描きとめたイラスト集の文献がありました。(画像はリーフレットからの転載)

 

 もう刃物による戦争もないだろうからと、症状を記録しておいたそうです。イラスト左は刀で口が裂けてしまった負傷者です。当時は傷を縫合するという習慣がなかったため、放置して自然治癒したら、口が閉まらず始終ヨダレが垂れる状態となってしまいました。

 

 そこで新たに形成手術をして、イラスト右のように元の顔に近い状態に治療しました。それにしても、このイラストの人も顔を縫合したら結構イケメンそうなのに、刀傷での負傷状態は悲惨ですね。男性でも顔がこんな具合になるとショックじゃないでしょうか。

 

特に顔に傷を負うと、中には顔が人間に見えなくなるようなひどい形状になっている負傷者もいました。



仏国重症者の看護 

1900(明治33)年、北清事変(義和団の乱)での仏国重症者の看護(リーフレットより)

 

 一種のカルトである義和団の排外運動を支持した清の西太后は、欧米列強に宣戦布告し戦争となりました。しかし2か月もたたないうちに欧米列強軍に清は制圧されたという事件です。これには日本も八か国軍として参加していました。

 

 

8か国連合軍 八か国連合軍の兵士。左から、英、米、露、英国領インド、独、仏、オーストリア=ハンガリー、伊、日本。(ウィキペディアより)


 この際の日本軍の看護体制は手厚く大変待遇の良い状態にあったため、他国軍でも看護を受けた者の9割は、日本へ移動しての本格的な治療を望んだということです。