彰古館 -日本陸軍の医療情報史料室 【前編・世田谷区】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


 陸上自衛隊の三宿(みしゅく)駐屯地にある、彰古館という旧陸軍の医療史の資料館を見学した際の内容を3回に分けてご紹介します。



三宿駐屯地の入口 

東京の世田谷区にある三宿駐屯地の入口。ここはあらかじめ見学の予約を取り、書類を提出しなければ入れないなど、セキュリティが厳しい所です。


彰古館の入口  ここが彰古館の入口です。

 

入口上の木の看板に「彰古館」と書いてあるのですが、写真では見えないですね。  拡大画像↓↓↓


看板 

内部は自衛官のガイドさんに展示品の解説していただきました。


新島八重の勤務記録  展示室外の入口付近にはNHK大河ドラマ、「八重の桜」の主人公、新島八重の日露戦争の際の勤務記録の文献が掲示されていました。


新島八重(綾瀬はるか) 
「八重の桜」での新島八重(綾瀬はるか)

 

 

展示室の中にも新島八重の記録がありました。年齢詐称(?)の記録とのことで、ある書類に実年齢より当時の彼女の年齢が若く記載されていました。当時は60歳を超えていたはずなのに、50歳後半の年齢に記されていたようです。

 

これは雇い元(日赤?)が雇用年齢を60歳までにしていたため、新島八重も年齢はサバを読んで記載していたのではないかということでした。


日露戦争当時の新島八重 

日露戦争当時の新島八重。私自身はテレビを持っていないので、ドラマの話自体はよくわかりません。

 


広島原爆関連の資料  陸軍が調査した広島原爆関連の資料です。この時代の資料本は既に酸性紙に移行していたため、紙面が古い時代の文献よりさらに痛みやすくなっているとのこと。


破れた布地 

被爆者が着ていた破れた布地は四角い部分が黒色の模様だったそうで、原爆の高熱で溶け、四角い穴として残りました。

 

 暗色部分のほうが熱を通しやすいということで、広島原爆投下後、政府は国民に黒布地の服は着ないようにとの通達を出していました。

 

 原爆もマッカーサー元帥は、皇居、赤坂、青山墓地、京都などを避けて投下するように指示していました。

 

以前、乃木神社・乃木大将邸宅の記事でも書いたこともありますが、マッカーサーは乃木大将を大変尊敬していました。そのため彼は乃木宅が保存されている赤坂(乃木神社)、乃木大将のお墓がある青山墓地の爆撃を回避させました。

 

ガイドの方は、結局乃木大将のお蔭で日本の運命が決められたようなものだと述べられていました。

 

 以下から展示室内部の写真になりますが、無断転載されるような写真は出さないように再三言われました。それで見にくいですが遠景から小さめに載せています。ちなみにここは撮影禁止ですが、撮影許可願を提出しています。

 


展示室入口 

ここが展示室入口です。右側に歴代軍医トップの肖像画、その下のガラスケースに史料などが展示されていました。


歴代軍医トップの肖像画 

歴代軍医トップの肖像画。

 

 森鴎外も陸軍軍医でしたから、本名の森林太郎(りんたろう)と書かれた陸軍軍服の肖像画がありました。

  森林太郎には陸軍軍医トップであった医務局長時代、陸軍で白米を奨励して脚気患者が多数発生したという逸話が残っています。一方、海軍では洋食や麦飯を採り入れた結果、脚気患者は発生しませんでした。


森林太郎(鴎外) 

陸軍軍服を着た森林太郎(鴎外)、1862(文久2)-1922(大正11)年

 

 

 脚気はビタミンB1の欠乏から来る病気ですが、B1の発見は1911年で、当時はまだ発見されていなかったため未知の病でした。従って森軍医の在任中には白米にはB1が乏しく、洋食・麦飯に豊富に含まれているということが解明されていませんでした。

 

 また当時白米はぜいたく品で、それを目当てに陸軍に入隊した者も多かったため、森軍医が白米を奨励したのもやむを得なかったろう、というのがガイドの方の見解でした。

 

 軍医の肖像画では黒田清輝画伯(18661924年)の描いた軍医画が1枚ありました。高価だということですが、それが他の肖像画と比べて素人目に見ても、人物が生き生きとした様子で明らかに違うんです。さすが名を残す画家の絵は際立っていますね。∑(゚Д゚)



黒田清輝の作品、『湖畔』 

黒田清輝の作品、『湖畔』。本来は女性画が多いです。