一頭も帰還できなかった軍馬 | 太平洋戦争史と心霊世界

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馬慰霊碑 
  靖国神社の「戦没馬慰霊」碑
  
  

 日中戦争から太平洋戦争にかけての日本軍の戦没者は230万人と言われていますが、人間だけでなく従軍した馬も、約100万頭近い犠牲が出ています。

 

 これは第二次大戦時、すべての部隊を自動車化に移行させた米軍に対し、日本陸軍は経済的、技術的に機動力・輸送力を馬編成から自動車へと転換できなかったのが原因でした。

 

開戦に当たり自動車編成に転換できたのは、陸軍の近衛師団と第五、第四十八師団の三個師団だけに過ぎず、残りの部隊は馬編成となっていました。

 

馬の犠牲が大きかった理由として、見境ない軍馬徴用により馬が無用に増えたため、馬の扱いが粗雑になったことがあります。

 またそれを扱う要員の訓練が行き届かず、愛馬精神に欠けるなど、馬の管理上の問題がありました。

 

梅津馬政課々員(31期、のちの少将)は上海の出張先で、「馬は痩せて紙の如く、一枚、二枚と数えている」という光景を目にしています。

 

さらに馬の無用な犠牲を出した原因として、南方作戦において、熱帯雨林や珊瑚礁の中にあるような小島に馬を連れて行ったことがあります。

 

熱帯雨林といえば道なきジャングルですから、輸送力としての馬も役に立たないことはおぼろげながら想像はつきます。

 

しかし陸軍では仮想敵国が従来ロシア(ソ連)であったため、大陸での戦争は作戦準備していても、太平洋戦線は想定外であったため、南方での戦いにも具体的に何をどうするという作戦規定がありませんでした。


陸軍将兵 

 

一例として、大卒の予備士官が陸士出の士官に、南方ではどのように戦うのかと尋ねた際の逸話が残っています。

 

「中條大尉殿(陸士出の士官)は、本職の軍人ですから、仮想敵国の範囲に密林があるところがあって、密林の研究は、十二分に承知していると思いましたから、密林内の戦闘とは、どういう戦闘方法なのか、と質問しました。

 

中條大尉の返事は、甘い蜜が出るような森だから、それに気を取られて戦闘精神を失うな、ということだと言われました。

 

中條大尉殿は、密林の密を、蜜蜂の蜜だと思っているんです。

 

僕は一人で考えました。考えたというのは――僕達は第二中隊です。輓馬(ばんば)で弾薬、糧秣を輸送する兵科です。密林と言えば、恐らく樹が茂りに茂っている森だと思うんですね。そして、輜重(しちょう)車とか荷車を引いた馬が、物を運ぶなんてこと出来るわけがないでしょう」

 

 そして予備士官は中条大尉に、馬を現在駐屯している中国大陸へ置いて行ったらどうかと進言しますが怒鳴られて却下され、結局は馬を南方へ連れて行く羽目になります。

 

しかし馬を赴任先のフィリピンへ輸送中、米潜水艦に攻撃されて輸送船は沈没し、多くの将兵は助かったものの、船倉につながれた69頭の馬は船と一緒に溺死してしまいました。

 

 開戦直前の日本での馬の総数は約150万頭でした。陸軍ではそれを根こそぎ徴収したため、それは寄せ集めの集団でした。ちなみに1945年度の機動師団の歩兵大隊長の乗馬には、人間でいえば6070歳に相当する15歳の老馬があてがわれました。


 馬は兵器備品の扱いで、日本各地から集められて戦地へと連れて行かれ、死ぬまで使われ戦後一頭も日本に還ってくることはありませんでした。

 

将兵の糧食輸送も不可能となった場所では馬の馬糧に真っ先にしわ寄せがいき、馬の餓死は当たり前となりました。さらに食糧事情が悪化すると、馬を食糧として食べてしまう所も出てきました。

 

 また馬の徴発により農業の生産力も落ち、食糧自給にも悪影響を及ぼしたことも大きかったと言われています。

 

 

『ハルマヘラ・メモリー』、池部良、中央公論社、1997

『餓死(うえじに)した英霊たち』、藤原 彰、青木書店、2001