【本】大岡昇平の『ある補充兵の戦い』 【後編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


 大岡昇平が体験した補充兵の従軍戦記の後編です。


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■大岡一等兵、銃を棄てる

 

 大岡一等兵はマラリヤで衰えた身体で行軍するうち、携帯している銃が重荷となってきます。銃とはいっても廃銃で、形だけの実際には使用できない代物でした。

 

 「私は分隊長にそっと、

 

 『この銃、持てなくなったら棄ててもいいでありますか』

 

 と訊いてみた。銃は兵器であるから毛布やテントみたいに、やたらに棄てるわけには行かない。分隊長は流石(さすが)に明答しかねたらしいが、横を向き呟くように、

 

 『いいぞ』といった」。

 

 そこで大岡は隙を見て、銃を捨てました。しかし中隊長が銃を持っていない大岡一等兵に気付きました。

 

 「彼(中隊長)が空手の私を見た眼も、信じられない者の出現を見たというような、不安の色を浮べた。

 

 『大岡、銃はどうした』

 

無論彼は『戦友に持って貰っております』ぐらいの返事を期待していたろう。が、私は咄嗟(とっさ)に嘘がつけるたちではない。

 

『棄てました』

 

当今流行の言葉なら、ギョッというところであろう。

 

『なにい、棄てたあ。誰に断ってそんなことをしたか。何故棄てた』

 

『弾倉底板がない廃銃であります』

 

『馬鹿。廃銃でもなんでも、黙って棄てる奴があるか。どこへ棄てた』

 

『すぐそこであります』

 

『馬鹿。取って来い』

 

『はいっ』

 

私は急いで林中に引き返し、銃を拾ってきた。(中略)私は取り返しがつかないことが起ってしまったのを感じた。

 

敵前武器放棄が死刑であることは、いくら補充兵でも知っている。知りながら、私が敢えて銃を棄ててしまったのは、その行為の瞬間、結果の予想が頭に浮かばなかったからである」。

 

その後大岡は中隊長に改めて呼び出されました。

 

「中隊長に呼ばれた。再び捧げ銃する私をじっと見る彼の眼は、悲しげであった。彼は私を叱りもしなければ、打ちもしなかった。ただ、

 

『普段の心掛はこういう時に現れる。今後気をつけろ』といっただけであった」。

 

銃喪失で通常は死刑のところ、なぜ大岡一等兵が咎めを受けなかったのかというと、

 

「我々はいずれ消滅する運命にある60名の小部隊であった。その部隊で陸軍刑法を厳密に適応してみたところで始まらないからである」

  と推察しています。

 

以上のように、軍規を犯したからといって杓子定規的に必ず刑法が適用されたわけではなく、状況によっては酌量の余地があったようです。

 

 バンザイする陸軍兵 

■死ぬ時「天皇陛下万歳」を本当に叫ぶのか

 

 これも叫んだ、叫ばず代わりに母親の名を呼んで死んだなど色々な話が残っていますが、大岡一等兵が見聞した話もまた様々でした。

 

 「私が昭和19年の初め3か月の教育を受けた東部第二部隊の班附上等兵は、出征ときまった我々を或る日集めていった。

 

 『おい、お前達、ちょっといっといてやるけどな。前線へ行っても、決して「天皇陛下万歳」なんていって死ぬんじゃないぞ。よく覚えとけ』

 

 彼は理由をいわなかったが、とにかく宮城(きゅうじょう)から十丁と離れていない地点で、現役の近衛兵の口から出たこの冒涜の言葉を、我々は呆気に取られて聞いていた。

 

 しかし比島の任地では、或る日中隊長は訓示した。

 

 『わしはノモンハンで兵隊が「天皇陛下万歳」といって死ぬのを、この眼で見、この耳で聞いた。それまではそんなこともあるものかと思っていたが、やっぱりほんとうなのだ』

 

 彼の言葉はあまり軍人らしからぬ懐疑を告白することによって、甚だ説得的であった」。

 

 このように、戦時中は価値観が一元的な社会にも見えましたが、実際の価値観の捉え方には各人各様の個性の発現が見られました。

 

中には憲兵からの取り締まりはなかったのかと懸念が持たれる話もありますが、見えない仲間内ではこれらの逸話のように、軍人たちにも自由に振る舞う余地があったのかもしれません。