前編では、イギリス海軍が「艦長が艦と運命を共にする」とされる習慣は、日本人の都合の良い解釈によって生まれたのではないかという、イギリス人ジャーナリスト、ラッセル・スパーの説をご紹介しました。
『提督伊藤整一の生涯』の著者、吉田満も、
「一提督を養成するには20年、30年という長い年月と、莫大な費用を必要とする。艦は沈んでも再製が可能だが、人間はそうはいかない。したがって、いかなる手段に訴えても人命の救出に万全を期するのが、英米の伝統的思想であった。
日本海軍においても、中央の人事当局、作戦当局は、同じ発想を支持していたものと思われる」
と、フィリップス提督らが自決的行為で責任を取ったとされる発想に疑問を呈しています。
吉田氏の述べるように、戦死による人材不足に悩まされた日本海軍上層部も昭和18年、実際に艦長が艦と共に沈むことを禁止しています。
つまりこの慣習は日本海軍が強制したものではなく、英国海軍のフィリップス提督らが艦と一緒に沈むことで責任を取ったという曲解的解釈も入り、切腹して責任をあがなうという日本古来の風習も加え、日本海軍で自然発生的に習慣化してしまったのではないかということです。
その慣習として定着してしまった原因は何かというと、やはりミッドウェー海戦が発端となります。
ミッドウェーにて空母の指揮官たちは吉田氏によると、
「第二航空艦隊司令長官、山口多聞少将と、艦長、加来止男大佐の見事な最期は、「蒼龍」柳本艦長の最期とともに、平出英夫大佐の悲痛な放送によって、全国国民に広く喧伝された」。(注1)
(注1)6月10日の大本営発表では、日本軍の損害が空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、航空機35機喪失と報道され、実際には空母4隻が撃沈されたことは隠されていた。
マレー沖海戦でイギリスのプリンスオブウェールズが沈没したのが昭和16年12月10日、ミッドウェー海戦はそれから半年後の昭和17年6月5日です。
するとこの半年の間に日本海軍ではイギリス海軍に習い、「艦長が艦と共に沈む不文律」がいつの間にかできあがったという事になります。
その不文律ができあがった半年間に日本海軍で沈没した軍艦といえば、昭和17年5月8日の珊瑚海海戦で米軍に撃沈された、空母「祥鳳」(しょうほう)くらいです。ところが祥鳳の艦長であった伊沢石之助大佐は艦と共に沈まず生還しています。
また日露戦争の例を見ても、機雷により爆沈した戦艦「八島」の艦長・坂本一大佐は生還していますが、その件を咎められた形跡はなく、のちに中将まで進級していますので、「艦長が艦と共に沈む」のはミッドウェーから始まったようです。
以上のように考察すると、艦長が責任を取って溺死するようになったのは、英国海軍を見習ったからだという話はミッドウェー以来、後付けで付加された言い訳のようにも聞こえます。
実態はミッドウェー海戦での司令官・艦長らの潔い死にざまが国民に称賛され、生還した赤城の青木艦長のような立場の指揮官は非難されたため、引っ込みがつかなくなり「艦と共に沈む艦長」が悪しき慣習として定着してしまったのではないでしょうか。
青木艦長の処置についても、海軍上層部はしばらくは閑職につけ、ほとぼりが醒めてから前線に復帰させようとする方針だったとされています。
ところが戦死した山口・加来・柳本・岡田の提督たちへの礼賛があまりにも高まり、青木大佐が「艦を見捨てて生還した艦長」と国賊扱いされてしまったため、世論に押し切られる形で青木を早々と予備役へ編入してしまったとの説も残っています。