戦後、米国が分析した太平洋戦争下の日本 | 太平洋戦争史と心霊世界

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戦争 


 トルーマン大統領は戦後、米国戦略爆撃調査団を設置し、あらゆる角度から太平洋戦争下の日本について調査しました。

 

調査団は軍人850名からなる大規模な組織で、昭和29年に東京に本部が置かれたほか、名古屋、大阪、広島、長崎に支部、太平洋諸島やアジア大陸にも移動班がありました。

 

具体的には戦時日本の軍事・各作戦・戦闘について調査し、戦時経済や戦時生産のかなりの情報を正確に入手しました。

 

これは日米戦争の総括分析として、全容を分かりやすくまとめてありますのでご紹介します。

 

 

■日本海軍

 

若干の民間人や海軍グループの大部分は米国という国柄、その工業、技術における潜在力、さらにいったん奮起した場合の敵愾心(てきがいしん)の強さについて熟知していた。これらの人々は、結局は交渉によるほかは、戦争の結末をつけようがなく、また、だらだらと長期戦に引き込まれて、しかも敗北を冒すかもしれない戦争計画に不同意を表明していた。」

 

 「海軍グループ」とは米内光政や山本五十六、伊藤整一、山口多聞などで、日本海軍については極めて好意的な分析でした。

 

 

■日本海軍はなぜ戦争に踏み切ったのか

 

米国の対日資産凍結、対日石油の全面禁輸によって、減少する石油補給に重大な関心をいだかざるをえず、次第に急進的な意見に傾いていった。」

 

 調査団の報告は一方的に自国に偏ったものではなく、米国の経済封鎖が日本を戦争に踏み切らせたと認めています。

 

 

■戦 闘

 

「日本軍は石油確保のために、陸軍はマレー、スマトラ、ビルマの征服作戦に入り、海軍は真珠湾のほかに、フィリピン、ボルネオ、セレベス、ジャワ、北部ニューギニア、ビスマルク諸島、ギルバート諸島、ウェーク島への作戦を展開した。」

 

「日本軍は当初、太平洋方面において、連合軍よりはるかに優勢で、パイロットは平均して500から600時間の飛行時間を持ち、中国大陸で実戦の経験もあった。加えて飛行機の性能もよかった。日本軍はたちまち太平洋の各地を占領した。」

 

「戦線を拡大したため骨の折れる補給問題をかかえ、防備も手薄になり、無力で脆弱な陣地がいくつもできた。さらに米国は日本海軍の暗号を解読したため、正確、かつ詳細な日本海軍の情報を入手するに至った。」

 

「珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦において、米軍は事前に情報をキャッチし、ミッドウェーでは日本海軍の「赤城」「加賀」「飛龍」(ひりゅう)、「蒼龍」(そうりゅう)の4隻の空母を撃沈した。日本海軍は空母機動部隊の弱体化によって苦境に立った。

 

「マリアナ沖海戦では、米海軍機動部隊の総指揮官スプルーアンス提督は、空母、戦艦、巡洋艦、その59隻からなる日本の大部隊がサイパン沖に進撃中という情報を得て大勝利を得た。」


海軍参謀 

 

 

■自然資源・補給

 

「石油は日本では海外よりしか入手できなかった。石炭すら大陸からの海上輸送を必要とした。

 

開戦時、日本は約620万総トンの船舶を保有していたが、日本は第一次大戦で英国がドイツの潜水艦に苦しめられたにがい経験を、いっこうに学んでいなかった。このため初期には船舶護衛を主とする司令部、機構は日本海軍に存在しなかった。

 

1943(昭和18)年11月、船舶の喪失が約250万総トンに達したとき、日本はあわてて護衛兵力の強化に乗り出したが、最初の保有量の80%は、すでに沈められていた。」

 

外地にある船舶の修理施設も貧弱で、トラック島やラバウルには修理設備がなかった。燃料貯蔵施設もなかった。またアメリカのレーダーと水中聴音機のすばらしい進歩によって、日本の船舶は窮地に追い込まれた。

 

昭和19121617日の両日、米空母機動部隊はトラック島を空爆し、52,000トンの油槽船を含む186,000トンの船舶を沈めた。これで日本海軍の燃料補給は致命的に減少した。

 

この年330日のパラオ空襲では、のべ95,000トンの船舶を沈め、そのうちの半分は油槽船だった。8月になると、日本は500万トンの船舶を失い、日本の商船隊は壊滅した。」

 

 

■なぜ日本に和平論が浮上しなかったのか

 

 「陸軍省、陸軍参謀本部、海軍省、海軍軍令部の中堅幹部、政府部内の一部官僚は、必要があれば、もっと強力な戦争遂行内閣をつくるべくクーデターも辞さずと強硬になっていた。

 

加えて日本の損害を隠ぺいし、戦局逆転の大作戦を実施できる軍事能力が日本にあるという報道が連日行われ、国民は実態を知らないまま、引きずられる存在になっていた。また警察と軍部への恐怖もあった。」

  

 

■日本のジャーナリズムへの評価(昭和20年)

 

 

 「戦争を客観的に見つめる目はなく、あったとしても検閲が強化され、紙面に反映させることはできず、各新聞は競って特攻を礼賛し、本土決戦を訴えた。」