戦時中に負傷された元傷病兵の方の体験談です。
■「失明の夫を支えて」(横田貞良氏)
昭和16年に結婚。その6日後に召集されフィリピンへ。翌年、戦闘中に砲弾の破片で両眼を負傷。内地還送され大阪陸軍病院、東京第一陸軍病院と移り義眼を装着して帰郷。失明のため思うようにいかず自暴自棄となる。
妻は終戦時には二人の子育てと農業の重労働で倒れ、意識不明になる。25年、農業を続けられなくなり夫婦で実家を離れる。
傷病恩給が支給されても夫は寝言にうなされ続け、気を紛らわすために勝負事に走った。一時は夫婦とも死を意識。晩年、夫は勝負事を止め家族団らんで過ごすようになったが、58年に他界。その直前に言い残した。「戦争だけはいやだ」と。
■「義足で、田んぼでも畑でも働いた」(飯島茂氏)
左側が飯島氏。一本足で生きることを心に決めた時。しかし、「家に来たら寂しかった。義足をつけているのは誰もいなかったから・・・」という。
■「片手のハンディを乗り越えて」(山本光夫氏)
15歳で海軍に志願。海防艦に砲員として和歌山県由良港沖にて敵機の機銃掃射で右手を貫通し腹部は深い擦過傷となった。由良港から海軍病院に搬送。右手は切断手術を受け意識を失った。
入院して2週間ほどで終戦を迎えるが、寝たきりの生活が数か月続いた。昭和20年11月に退院して大阪海軍病院有馬分院で療養し、帰郷。義手を製作するため、国立相模原病院に入院。その2年後、故郷へ戻る。
24年、畳表専門の畳屋を始める。義手は役に立たなかった。片手で器用にこなし、健常者に負けないようにがんばった。「成せばなる、成さねばならぬ何事も」と。
しょうけい館・戦傷病者資料館、記録映像資料より
(当館の視聴覚室で証言映像が視聴できます)