「汝の敵を知れ」【前編】-米軍の日本語学将校の養成 | 太平洋戦争史と心霊世界

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


米軍 


 米軍での日本語学将校の存在は以前取り上げたことがありますが、今回は別の面を取り上げます。

 

 アメリカは日米開戦後、情報戦を重要視し、日本軍の情報を収集して解読・分析するための組織づくりを始めました。

 

 日本が「鬼畜米英」をスローガンにし、敵性英語を禁じている間に、米軍は「ノウ・ユア・エネミー」(Know your enemy・汝の敵を知れ)を合言葉に日本文化の習得に励んでいました。

 

 1942(昭和17)年6月には、そのための組織としてJICPOの前身であるICPOA(太平洋地域情報センター)が米海軍によりパールハーバーに設置されました。

 

 それから間もなくガダルカナル戦が始まり、日本軍の大量の日記や手帳などの文書が捕獲されました。この文書の翻訳に従事したのがコロラド州ボールダーの海軍日本語学校の最初の卒業生でした。その中には日本文学研究で有名なドナルド・キーン氏の姿も見られました。

 

 日米開戦の前後には、アメリカ国内で日本語の翻訳・通訳を行える人間は日系二世を除き、100人にも満たなかったと言われていました。従って、当初は日本語の情報を収集できる語学将校は皆無に等しかったのです。アメリカはこのような状況をいかに打破したのでしょうか。

 

 米軍はこの頃、急きょ語学将校の養成に着手し始めます。米海軍は日米開戦の2か月前より、カリフォルニア大学バークレー校に日本語学校を設立しました。

 

そして全米を回り、最初に宣教師の子弟など、日本生まれのアメリカ人、日本語を勉強しているアメリカ人など、日本文化に馴染みのある関係者を集め日本語を学習させました。日本語教師には日系人もかなり存在していました。

 

その後西海岸から日系人が排除されたため、海軍日本語学校はコロラド州ボールダーにあるコロラド大学へ移動しました。

 

しかしこれらの学生だけでは需要人数を満たすことができませんでした。当時日本語は世界でも非常に難しいレアな言語だと思われていたため、学習者も非常に少なかったのです。

 

そこで海軍は全米の大学生の中でも最優秀成績者で組織される「ファイ・ベータ・カッパ」というクラブから日本語学生の募集をかけました。これら全米最高レベルの人間によりわずか12か月で日本語を習得させようという計画を立てました。

 

そこでの語学学習は以下のような熾烈を極めました。

 

「それはまさに特訓以外のなにものでもなかった。授業は一日4時間だったが、一時間の授業につき最低3時間の予習復習を要求されたため、学生たちは一日中机に向かわなければならなかった。

 

そして、毎週土曜日には、4時間の試験が行われ、月曜日にはその成績が張り出された。教師はほぼ一か月ごとに交替した。それはさまざまなタイプの日本語に慣れさせるためだった。」