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それから二ヶ月後の交霊会にまた横尾さんの弟さんが自動書記で通信された。
「潮騒の音にさえ耳を傾け、また書を読む境地となりました。兄上・嫂(あによめ)上のお蔭と思い、毎日々々感謝しています。素朴にして直向(ひたむき)な折々の中に、その波長の念ほど有難いものはありません。
何は無くても、お二人の誠をみていると、直結されている私は嬉しく、楽しい絵図を見ているような思いです。お礼の言葉の申しようもありません。
パッと大空の中に轟音をたて、散華した己であったことが漸(ようや)く分かりましたよ。覚悟の上とは申せ、人間というものは果ないものですね。
大事にしてください。残る生命を、僕の代りまで長生きしてください。
佐 資 郎」
佐資郎少佐は昭和20年4月11日、沖縄近海上空で敵艦を特別攻撃、散華された。謹んで、御冥福を祈る。(中略)
それから数年後、横尾さんのお宅に佐資郎少佐の遺品が届いた。基地の近くにお住いの方が預って、長年遺族の方を探しておられた由。届いたのは、昭和54年4月11日、奇しくも出撃されて満34年の命日であった。一冊のアルバムをめくっていくと、
身はたとへ 南の海に 水漬(みづ)くとも
折り折りかへれ 故郷(くに)の夢路に
の一首が記されてあり、日付は20年4月8日、最後の攻撃行の3日前。これが辞世となった。
夢に現はれ、交霊に出られ、遺品も届いた今は、心置きなくそちらの世界から世界の平和を御祈念下さい。
合 掌
(昭和58年7月 補記)
【解説】これは交霊会の模様を綴った内容なのですが、ここでは昭和20年、特攻により戦死した霊の訪問を受けました。
しかし横尾少佐とかつて呼ばれた霊は、死後30年近く経ってもなお、自分が本当に死んでいるのかどうか、自覚が明確でなく地縛霊となっていたらしいことが、二度目の会話より推察されます。
そうと言って地上の人間が霊を成仏、つまり霊界に行かせようと接触しても、「波長の法則」というものがあって、霊感がある人間でもない限り、なかなか霊とは連絡が取れません。
本人と思念で連絡が取れるのは、横尾少佐の話にもありますが、一つは近親者など故人と親しかった人たちです。横尾少佐は「今もって兄さんの念波だけはとても暖かく、嬉しい。この僕の中に栄養分として貯えられています」と、兄の念波を食べ物のような生命力として感謝して受け取っているようです。
もう一つは、自分の霊性レベルと同じ波長レベルを持つ人の念波は、受け取ることができます。反対に以下の図のように、自分より高い念波、低い念波は受け取ることができません。丁度ラジオのチューナーを合わせるように、自分と同じレベルの波長だけを拾うことになります。
戦死後、今なお霊界から平和を祈願している霊がいます。後世の人間にとっては、故人の犠牲的行為を無駄にしないような生き方をすることが、せめてもの供養なのかもしれません。
『筑紫交霊録』、豊島伊都男 編、筑紫交霊録刊行会、1976年(増補版:1983年)