
轟沈とは、戦闘行為の最中に攻撃を受けた艦船が一瞬にして水没してしまうことを指します。轟沈と見なされるのは、艦船が破壊されてから沈没まで、約数分という短時間であることが目安とされています。
轟沈は滅多にありませんでしたが、戦時中には昭和19年10月、レイテ沖海戦に参加した重巡「麻耶」(まや)が、米潜水艦の雷撃により轟沈と呼ばれる状態で沈没しています。以下は戦艦大和から見た麻耶の沈没していく様子です。
「『敵潜』
たれかが叫んだ。
ドォーン
という轟音があたりにこだまする。
今度は大和のすぐ前を航行していた巡洋艦「麻耶」が攻撃を受けた。
海面が山のように盛りあがった。海底噴火のようなすさまじい水柱が目の前にふきあがった。麻耶の横腹に魚雷が命中したのである。
天にむかってのびた水柱がザアッと落下した。目の前が滝となった。数秒で水が消えた。視界がひろがった。耳をつんざいた轟音も消えた。海上に静けさがもどった。

『麻耶がいない』
たれかが叫んだ。
なんと、水柱が海面に戻ってきたときには、すでに麻耶が沈没していたのである。
『轟沈だ』
この言葉はなんども聞いてきた。しかしそれを見たのは初めてであった。
一瞬で沈むことを轟沈という。
『水柱があがってそれが消えたときには海中に沈む。そのため助かる者がすくない。』
と先輩たちから聞いていた。本当であった。聞いていた話のとおりであった」。
麻耶が雷撃を受けたのが06時57分で、その瞬間から水柱が収まるまでのわずか8分間、時刻にして07時05分に麻耶はシブヤン海に水没してしまいました。あとの海上には救助を求める脱出した乗員の姿のみが残されていました。
麻耶の戦死者は、艦長の大江覧大佐以下336名、負傷者が33名、生存者は副長以下769名にのぼりました。戦死者の中には、東郷平八郎元帥の孫であった、東郷良一少尉も含まれていました。
麻耶は被弾から沈没まで、時間にして8分間の余裕があり、乗員も多くが退艦できたので幸運な例だったかもしれません。
他に轟沈となった例として1941年5月、ドイツ戦艦「ビスマルク」から砲撃を受けたイギリス巡洋戦艦「フッド」があります。

フッドの場合は乗組員の中でも生存者は1,419名中、実に3名だけであり、瞬時にして轟沈したため脱出の余地がなく、乗員のほぼ全員が犠牲となりました。