華やかな戦闘談(?)の影に隠れ、負傷兵の方々は通常戦史にも登場しない日陰の存在です。ここではそのような、戦時中に負傷された方の体験談を取り上げたいと思います。
■「遠くなってしまった傷心の日々」(梅田武男氏)
昭和12年秋に、中国の戦闘にて左腕を負傷、その後、日本に送られ陸軍病院で左腕を切断した。そのため家業の漁業を継ぐことをあきらめ、事務の仕事につくため大阪に出て、鉄工所に就職した。
しかし終戦にともない金沢に戻り、時には米の運び屋などの闇屋家業を経験するなど、仕事を転々として、右腕一本で家族を支えた。戦争中に国から支給された義手3本は、その重さために全く使わなかった。
【解説】片腕というのは身体の重さのバランスが取れないため、歩くのにもかなり難儀するそうです。
■「ミッドウェー海戦で負傷して」(長沼元氏)
昭和16年6月に現役兵として海軍に入団。10月、航空母艦加賀の整備兵となり、12月には真珠湾攻撃に参加。
17年6月にはミッドウェー海戦に参加。艦上攻撃機の発着準備をしていた最中、甲板で準備していた爆弾や魚雷に敵機の爆弾があたり誘爆し炎上。甲板上の戦闘機、爆撃機が溶ける大惨事となった。
整備兵として上下つなぎの作業服(煙管服)を身に着けていたため、ガソリンが染み込んでいた服に火が燃え移り、両腕下半身に重症の火傷をおう。ミッドウェー作戦という負け戦で負傷したため、帰国してしばらくは入院先から家族に連絡を取ることも許されなかった。
【解説】「負け戦でしばらく家族とは連絡が取れなかった」というのは、海軍がミッドウェー海戦を勝ち戦だと報道していたので、負けたという事実が漏れないために、下級士官や下士官兵を一定の場所に隔離していたためです。
両手切断後、生きる気力を失い何度も自殺を考えた。それを思い止めさせてくれた付き添いの妹とともに。
しょうけい館・戦傷病者資料館、記録映像資料より
(当館の視聴覚室で証言映像が視聴できます)