戦後初めて国民が知った戦艦大和の存在 | 太平洋戦争史と心霊世界

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 日本国民が戦艦大和の存在を初めて知ったのは、実は戦後になってからでした。戦艦大和は国民の知らないところで秘密裏に設計・建造され、戦時中は極秘の存在とされていたからです。

 

 当時は大艦巨砲の時代で、戦艦が戦闘の雌雄を決する要となっていました。しかしアメリカでは、主力艦を大西洋から太平洋へ移動させる場合、パナマ運河を通過しなければなりません。

パナマ  アメリカ東海岸から、パナマ運河を経由し西海岸へ 


  運河は水門の大きさが決まっているため、アメリカ軍艦艇の排水量は最大でも
34,000トン以下に抑えられていました。

パナマ運河 

「パナマ運河のガトゥン閘門(こうもん)」
 

 

 この事実に目を付けた日本は、アメリカ以上の戦艦を建造し、軍事的に優位に立とうと考えました。その結果造られたのが、排水量64,000トンという、巨大戦艦「大和」です。

 

 大和の設計作業は1934(昭和9)年10月から東京の艦政本部で行われ、当初から厳重に緘口令が敷かれました。建造は1937(昭和12)年に呉の海軍工廠(こうしょう)で始まり、1941(昭和16)年12月の日米開戦後に就役しました。

 

建造中は秘密保持のため、外国人の移動は大幅に制限され、憲兵は外国の武官や新聞記者をずいぶんと尾行して回っていました。周りでの写真撮影も禁止で、広い範囲にわたって立ち入り禁止となりました。正確なトン数も隠し、議会をも欺きました。

 

その結果のちに、大和建造は秘密保持が過ぎたと批判されています。計画をもっとオープンにして広く専門家の意見を求めたほうが、幾つかの重大な欠陥も発見できただろう、という批判でした。

艤装中の戦艦大和  「呉海軍工廠で最終艤装中の大和」1941920日)
 

 

太平洋戦争中、大和は無名でした。海軍関係者の間で大和は、公然の秘密となっていましたが、軍の最高機密として隠されていたため、国民には大和の存在が周知されることはありませんでした。

 

大和が無名であったもう一つの理由として、活躍できなかったことが指摘されています。戦時中、飛行機の零戦を知らない国民は一人もいませんでした。それに対しもはや大艦巨砲の時代は過ぎ去り、大和は海で名を知らしめるような戦果を上げられなかったのです。

 

昭和2047日、沖縄特攻に出撃した大和は、坊の岬沖海戦と呼ばれる戦闘で鹿児島沖に沈みました。しかし当時の新聞でも、「沖縄周辺の敵中へ突撃 / 戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したのみで、「大和」という名前も概要も、国民に明らかにされることはありませんでした。

 一方、戦艦が沈没したらしいという、うわさが広まったという話もあります。毎日新聞の記者は、編集室に隠してあったラジオでアメリカの放送を聞いていました。沖縄特攻の生存者が佐世保に2週間隔離されていましたが、そこからも漏れてきました。
 

 戦艦大和の名が広まったのは、戦後しばらくたってからです。それまで国民は、戦時中に超ド級戦艦が存在したという事実さえ知りませんでした。

 

アメリカ人も、当時撃沈した戦艦は何であったのかわからず、戦後になり記録物を押収して、やっと「大和」という巨大戦艦であったと判明したほどでした。アメリカの有能な暗号解読者さえ、戦時中はほとんど何も、大和の実態を掴めていなかったということです。