
救出された「雷」甲板上の英国兵士。
前回は駆逐艦「雷」(いかづち)が英国兵を救助し、彼らをとりあえず甲板上に収容し終わったところまで進みました。話はこれが最終回です
間もなくイギリス士官たちは前甲板に集められました。何をされるのかと彼らには不安がよぎりましたが、工藤艦長がやってきて流暢な英語でスピーチを始めました。
「諸君は勇敢に戦われた。今や諸君は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争を仕掛けたことは愚かなことである」
ほかにも色々話したそうですが、フォール卿はこの部分だけはしっかりと覚えていました。
「雷」はその後も海上の漂流者を探し続け、たとえ遠方でも生存者があれば救助し、最終的に救助者は422名となりました。これは「雷」乗員の約2倍に相当しました。甲板は立錐の余地もないほどのイギリス兵であふれていました。
「雷」に救助された後の英国兵の様子です。
「われわれは、自分たちにすら貴重この上もないものとしている真水や乾パンも、彼らに配給した。彼らはしかし、必要なだけ乾パンを取るとつぎつぎと箱をまわし、残ったのをそのままこちらに返してよこした。
英国は紳士と聞くが、まさしくそのとおり、われわれなら先をあらそって一個でも余分に掠(かす)めとろうとする根性をまる出しにする場面なのに、まったく整然とした行為だった。これにはわれわれは驚嘆した。」
「カンメンポーと生水を与えると、すっかり喜んで食うわ飲むわ。水は結局全員で3トンは飲んでしまいました。士官には特別待遇でご馳走が出ました。ただし、士官の態度は貫禄はありましたが、中には、呆れた者もおりました。」
「明るい英国水兵は、いかにも日本海軍に移籍したような気分になり、(重巡)『足柄』に手を振る者もいた。実際、佐々木(一水)の話では、日本風の入れ墨をした若い水兵の中には、このまま日本へ行けると思い、『フジサン』『ゲイシャ』と期待をこめて発言する者もいたという。」
イギリスの救助兵たちは、一晩「雷」で過ごした後、翌3月3日にパンジェルマシンに入港しました。そして捕虜たちはオランダ病院船「オプテンノート」に引き渡され、「雷」の任務は終了しました。

オランダ病院船「オプテンノート」に移乗する英国士官たち。
昭和17年8月、工藤は「雷」から駆逐艦「響」艦長に就任することになり、同年11月には中佐に進級しました。「響」でも親父肌な工藤艦長は乗組員に慕われ、和気あいあいの雰囲気の中で勤務していましたが、そのうち体調を崩し、横須賀鎮守府の陸上勤務となりました。
工藤の海軍生活の後半は病気がちとなりました。彼の温和な性格にもかかわらず、機敏果敢な戦術が要求される水雷屋には合わなかったため、かなり無理をしていたと言われています。
戦後の工藤艦長は、クラス会の行事もすべて断り、死んでいった同期や部下の冥福を毎朝祈るという慎ましい生活を送っていました。

晩年の工藤夫妻
そして彼の死後、彼の甥である工藤七郎衛氏はその業績を知らされ、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と、初めて彼の業績を知り落涙されたのでした。
工藤夫妻の墓は、現在の埼玉県川口市朝日の薬林寺境内にひっそりと建っているそうです。

「雷」航海長だった元部下が工藤夫妻の墓参に訪れたところ。彼の足もとにオーブが写っている。
【動画】敵兵を救助した工藤俊作艦長(20:00)