工藤俊作 -敵兵422名を救助した海軍中佐(3) | 太平洋戦争史と心霊世界

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。



 1942(昭和17)年31日、英巡洋艦「エグゼター」英駆逐艦「エンカウンター」はジャワ島のスラバヤ沖で日本海軍に撃沈され、海に飛び込んだ英国兵たちは波間に漂っていました。

英巡洋艦「エグゼター」  英巡洋艦「エグゼター」


 「エンカウンター」に乗艦していたフォール卿の証言です。 

 

 「救命浮船に56人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から150海里も離れ、食料も飲料水もない有様でした。

 この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な状況に置かれていました。」
(日本の駆逐艦「曙」が近づいてきたが、何もせずに去って行った。)


 194232日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇り始めるとまた猛暑の中にいました。

 

 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある劇薬を携行しておりました。」


英駆逐艦「エンカウンター」  英駆逐艦「エンカウンター」


 漂流者が絶望的になりつつあった午前10時ごろ、目の前に突然日本の駆逐艦が現れました。これが工藤艦長の「雷」でした。駆逐艦は「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、敵兵救助の作業に入りました。

 

 しかし救助とはいえ、ジャワ海のこの海域で艦を停止させるのは危険きわまりない行為でした。事実、227日から31日まで、この海域では「敵潜水艦合計7隻撃沈」の報告を受けており、まさに潜水艦が頻繁に航行する通り道となっていました。

 

 そんなわけで、他の海軍艦艇は漂流者の救助には冷淡でした。34日、この海域を通過した駆逐艦「野分」(のわき)は敵兵を救助しようとしたところ、機動部隊司令部から移動命令が出たため、救助活動を中止しました。

 

 重巡「那智」の艦長は、危ない海域で漂流者を収容するため艦の停止さえ嫌がったという証言があります。しかし国際法上は、敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、漂流者を放置しても違法にはならないため、咎めを受けることはなかったのです。

 

 ところが工藤艦長の駆逐艦「雷」は、危険を承知で敵兵の救出作業を開始しました。彼は「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」という、極めて異例の命令を発しました。


「雷」に殺到する英国兵士 

「雷」に殺到する英国兵士。


 「下士官兵の重症者の中には浮遊木材にしがみつき、『雷』に最期の力を振り絞って泣きながら救助を求めていた。その形相は誠に哀れであったという。顔面は重油で真っ黒に汚れ、被服には血泥がべったりと張り付いていた。」

 

 「(イギリス艦長たちの収容後)敵兵は『雷』にわれ先に殺到してきました。

 

 一時、パニック状態になったので、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、集団後方から何か号令をかけました。すると、整然となりました。

 

 『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。」

工藤艦長 


 「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が(負傷している)『エクゼター』副長、次に『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿(しんがり)が青年士官という順でした。

 

 当初『雷』は自分で上がれる者を先に上げ、重症者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。

 

 その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』(はるな)の乗組員として、カッター(手漕ぎボート)で沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対照的な情景を目にしました」