陸海軍はなぜ互いに反目・迷走したのか【後編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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 昭和12年に日中戦争がはじまると、陸軍・海軍から成る大本営が設置されました。大本営とは天皇に直属する最高統帥機関で、天皇の命令を大本営命令として陸軍・海軍にそれぞれ発令する機能を持つ最高司令部でした。


天皇と大本営


  しかし大本営が設置されても中身は何も変わりなく、陸軍参謀本部が大本営陸軍部へ、海軍軍令部が大本営海軍部へとただ名前が変わったに過ぎませんでした。

  この後もお互いに縄張り争いを繰り広げ、事実上、陸海両軍部の意思不統一を調整できる者はいませんでした。

 

 陸軍は陸軍、海軍は海軍で物事を決定し、相互に秘密主義を保持して互いの相手の事情はさっぱりわからないというのが実情でした。

  どうしても陸海軍で協議しなければならないことは、結局足して二で割るか、どちらかが折れるという解決方法しかありませんでした。

 

 総理大臣さえもこの状況を何もできなかったし、陸海軍が何を考えているか、最前線はどこなのか、行政府でさえ新聞情報以外に知る由はありませんでした。


大本営の御前会議 

大本営の御前会議



 このような状況下で南方において、島嶼(とうしょ)戦で陸海軍の共同戦線を張る必要が出てきました。

 

しかし陸海軍を一元化できる権限は天皇以外になく、そのようなポストを作るとなると、天皇が南方戦線の現地で指揮を執るということになります。そんな事は不可能です。

 

統一指令部の設置のためには天皇の統帥権を見直す必要があったのですが、行きつく先は天皇体制の見直しということにまで発展してしまいます。それはダメだということで、結局敗戦まで見直しができませんでした。

 

 一方米豪軍では、日本の天皇のポストに相当する部分をマッカーサーが司令官として仕切り、陸海空の戦力を一元化し日本と対峙していました。

 

 陸海両軍の統一指揮が必要な時は、陸海軍間で「陸海軍中央協定」というものを作戦ごとに一々結んで共同作戦を行わねばなりませんでした。

 

 ところがこの中央協定も守られず、作戦中の陸海軍が反目・対立する事件が多く起こりました。

  日米戦争末期のマニラで、駐在武官の平出英夫大佐は新任の候補生たち(
73期)に、「アメリカ兵よりカーキ色(日本陸軍)が憎い」と怒りをぶちまけています。



海軍会議 

  平櫛(ひらぐし)孝・元陸軍中佐はこんな言葉を残しています。

 

 「国の中に二つの軍があるようなもので、しかもその二つの軍が政府(首相)に直属せず、それぞれが独立して天皇に直属しているという、とても常識では考えられない制度になっていたのである。

 

外敵と闘う前に、陸軍はまず海軍と、海軍はまず陸軍と闘わなければならなかった。その奇妙な闘いに、お互いが疲れ果てていたのである。このような国は世界でもまれであって、だからこそ滅ぼされてしまったということもできる。

 

そこへもってきて、最高責任者の不在という完全無責任体制が、憲法によって保障されていたのだから、いわば日本全体が烏合の衆の大群のようなものであった。」

 

 日本陸海軍の統制が効かなかった根本的原因は、国の統治体制に決定的な欠陥があったためと言えます。

  しかし新憲法下の現在でも、原発事故で誰も責任を取らないという事態に陥っているので、政治の無責任体制には憲法や統治体制を除く他の原因も絡んでいるのかもしれません。