
伊藤は昭和19年12月に第二艦隊司令長官に就任しましたが、この時には第一艦隊(戦艦を主力とする決戦艦隊)は既に消滅していました。第二艦隊とは巡洋艦・巡洋戦艦を主力とする前線部隊です。
伊藤は砲術出身であり、山本五十六のように航空機一本やりではなく、戦艦にも使い道があるとこれまで主張していました。
そのような戦艦軽視反対の立場をとってきた伊藤が戦艦「大和」に座上するということは、まさに本望ともいえるものでありました。
大和乗艦に当たり、伊藤は私邸では身辺整理に没頭し、いよいよ前線勤務の覚悟を決めていました。出立の朝、玄関を出る伊藤長官に夫人は、「もし負け戦だったら、帰ってきても家に入れませんよ」と笑顔で声をかけ見送りました。
つまり戦局も落ち目で勝ち戦など望めない中、必死に戦って、英霊となって帰ってきてくださいと覚悟を決めた夫への呼びかけだったのです。
伊藤家には息子が一人いました。長男・叡(あきら)は海軍兵学校(第72期)を卒業し、戦闘機乗りとして九州の出水(いずみ)基地にいました。当時中尉でした。

母親似といわれた長男、伊藤叡(あきら)
戦死率の高い飛行科に息子が進んだにもかかわらず、伊藤整一は重大なことほど指図はしないという主義で、家族にも不干渉を貫いていました。その長男はのちに、父親の死出の航海に途中まで同伴することになります。
宇垣長官は特攻する大和を含む艦隊に15機の援護機を付けましたが、その中に宇垣の配慮として伊藤中尉機も含まれていました。
彼は4月7日の出撃後行方不明になり、一時戦死と伝えられたものの命を取り留めました。
しかし3週間後、沖縄上空へ再び飛び立った伊藤長官の息子は、特攻により戦死を遂げました。出撃直後の様子は死に急ぐような有様であったと伝えられています。
享年21歳、遺骨も遺髪も帰ってくることはありませんでした。
一方伊藤整一は昭和20年4月5日、沖縄特攻出撃を前に夫人と娘たちに宛てた遺書を書いていました。字数の都合上、ちとせ夫人への遺書のみをご紹介します。
――此の度は光栄ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる覚悟に御座候
此の期に臨み、顧みるとわれら二人の過去は幸福に満てるものにして、また私は武人として重大なる覚悟をなさんとする時、親愛なるお前様に後事を託して何ら憂いなきは、此の上もなき仕合せと衷心より感謝しおり候
お前様は私の今の心境をよく御了解になるべく、私が最後まで喜んでいたと思われなば、お前様の余生の淋しさを幾分にもやわらげることと存じ候
心からお前様の幸福を祈りつつ
四月五日
整一
いとしき
最愛のちとせどの――
しかし伊藤整一の、ちとせ夫人の余生を思う心情とは裏腹に、残された彼女も間もなく病に倒れ、1年半後には娘3人を残し夫の後を追うこととなりました。