こうして日米開戦は伊藤の手で止めるすべなく始まってしまいました。ミッドウェー海戦の惨敗後、伊藤次長は昭和17年8月に米国から交換船で帰朝した横山一郎大佐に、図上演習や難題の対応に当たらせていました。
横山一郎大佐
伊藤はある日、「この戦争がどういう形で終結するか、検討せよ」という課題を横山大佐に出題しました。
横山は伊藤の機嫌を損ねるだろうとためらいながら、「戦争はどうやっても負ける。結果、うまくいって、あらゆる条件が日清戦争前に戻る」と書いて提出しました。
しかし当然不興を買って書き直しだろうという予想に反して、伊藤は「ご苦労様でした」と普段の口調で礼を述べただけで終わりました。
それまで伊藤について面識のなかった横山は、「これは、本当に偉い人だ」と感嘆し、おのれの不見識を恥じました。
昭和18年4月、山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死すると、軍令部総長が連合艦隊司令長官を兼任することになり、伊藤次長はますます常軌を逸するほど多忙となってきました。当時の伊藤の生活は次の様でした。
「当然のことながら、私的な生活には、ほとんど時間を割(さ)く余地のない日々がつづいた。夜の十二時前に家に帰りつくことは稀れであり、しかも翌朝は、平常のように早めに家を出た。若い頃から鍛えぬいた頑健な肉体だけが支えであった。
また好き嫌いがなく、戦局が進み食べ物がまずくなってからでも、なんでも喜んで食べた。
戦時食
夜遅くからでも寝つきがよく、ぐっすり眠れる方であったが、それでも疲れがたまると、昼間、10分とか20分とか予告して、どんな場所でも熟睡した。その時間が来ると、ひとりでパッと目が覚めるが、艦上生活でおぼえた海軍士官自慢の特技であった。」
伊藤は3年4か月にわたり軍令部次長の座に就いていましたが、これは異例ともいえる長さでした。
在任期間がこれほど長くなったのは、就任時期がやや早すぎたことと、適材の後任者が見つからなかったのが原因のようです。
昭和19年11月、レイテ海戦後に小沢治三郎中将が軍令部出仕となり戻ったため、彼が軍令部次長の後任と目されていました。
「鬼瓦」と呼ばれた小沢治三郎(おざわ・じさぶろう)
そこで伊藤は同年12月から第二艦隊司令長官を拝命しました。久しぶりの前線勤務が待ちうけていました。しかしそれは、無謀な沖縄特攻へと続く暗い運命への入り口でした。