伊藤整一(3)-二度の結婚 | 太平洋戦争史と心霊世界

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自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


昭和10年の伊藤家 
昭和10年の伊藤家。中央に着物姿で座っているのがちとせ夫人、その後ろの軍服姿が伊藤整一。他は一男三女の子供たち。


  伊藤の名が海軍内に知られるようになったのは、1921(大正11)年、32歳で海軍大学校(甲種)を首席で卒業した頃からでした。

 

伊藤はその3年前、29歳で12歳年下の栗賀婦美と結婚していましたが、彼女は1年足らずでお産のため亡くなってしまいました。

  伊藤の親友の話によると、彼は深く傷つきその心痛に耐えていましたが、やがて海軍大学校の卒業と同時に再婚することにしました。

 

この再婚相手となったのが、11歳年下で代々医師の家系という森ちとせでした。初めてのお見合いの際、森家では両者の年齢が離れすぎているのと、後妻として入ることに両親が反対し、伊藤に一旦は縁談を断りました。

 

しかし森家の断りに対し、誠意のある感謝の手紙を送った伊藤に、ちとせは何か思うところがあったらしく、交際を重ねやがて結婚することになりました。

 

彼女は伊藤とは何もかも対照的で、明るく世話好きでよく気が付き、背は低く小太りな容姿でした。人柄も円満で伊藤の兵学校教官時代には、ちとせ夫人を慕って生徒たちなどの来客が絶えなかったと伝えられています。

 

この夫婦は子供達が羨むほど仲が良く、伊藤家の次女が次のように証言しています。

 

「次女の淑子がいまだに忘れられないのは、両親の無邪気きわまる姿である。

  二人はふと視線が合うとか、手がふれ合うといった何気ない振舞いのなかでも、若い夫婦のような、あるいは兄と妹のような情感を、漂わせることがあった。そんな父と母の仕草はいかにも自然で、好ましかった。」


ゼロ戦と鳥居 


海軍大学校卒業から最後の艦隊司令長官まで、伊藤の経歴は22年ありますが、そのうちの3分の1の期間が艦上勤務などで艦長や司令官などを歴任しました。

 

残りの3分の2では、まず特筆すべきなのは人事・教育関係の履歴が計7年にも及んでいることです。彼は海軍省人事局や兵学校で教官として勤務しましたが、海軍上層部が伊藤の特質をどのような面に認めていたかを表しています。

 

次に海外駐在が長く、米国に2年、中華民国及び満州国に1年半滞在していた点です。これにより伊藤の国際感覚が養われました。

 

そして最後に軍令部次長としての3年半の勤務でした。次回からこれら伊藤の軍歴を年代順に辿ってみます。