兵士は社会の縮図 -バクチ好きな海軍軍属の例 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


日章旗を持つ兵士 


 米軍は戦場で拾得した日本兵士の手帳や日記を、日本人の性向を研究する上での資料としていました。

 

 その公開された手記の中には、様々な日本兵の見聞や体験が凝縮され、まるで日本人社会の縮図のようにも見えます。その中でもバクチがやめられない海軍軍属の日記を一例としてご紹介します。

 

 日記帳は昭和17年の「海軍日記」が使われていましたが、名前や所属は不明です。彼は徴用された労働者で戦闘要員ではなかったようです。


         椰子の木        椰子の木        椰子の木

 

 「五月九日 土曜 晴 明日再度の前線行である。パラオの人々にお別れする。・・・今度は遊び過ぎた。方々に借金は山程ある。晩には中西氏の所で就寝。」

 

 「遊び過ぎた」とはバクチをやり過ぎたということです。そのため、あちこちに借金があると正直に述べています。

 

 「五月二十一日 木曜 ザバール(ラバウル)港。俺は今日○○○をして○○円負ける。俺の一番の悪い病気である。俺はあれをやめん以上は俺の信用は零である。こん後、俺はどんな事があっても○○○だけはやめる。」

 

 「○○○」と伏字になっていますが、文脈から推測できるように「バクチ」ということです。「バクチをやめる」と自戒していますが、数日後にはまた悪い病気がそぞろ出てきます。

 

 「五月二十五日 月曜 晴 毎日の空襲、今日も敵機は来たけれども爆弾は一個も落とさず逃げて終ふ。俺は花札をして遊ぶ。外(ほか)の船は仕事に行くのに、俺達外二三隻の船は毎日錨地(びょうち)で休む。何をしに来たか知れない。」

 

 戦地に戦いに来たのか、遊びに来たのか。「何をしに来たか知れない。」と自己問答しています。そして翌6月。

 

 「六月二日 火曜 ザバールにて待機。俺も今まではルーズなる生活で有り過ぎた。子供に對(たい)して申し訳ない。今からでもおそくは無い。もっと人間らしく父親らしい生活をしやう。妻よ許せ。俺は決心した。五年後にはお前の所へ帰る。それまでは辛棒(辛抱)してくれ。」

 

 戦時中より「ルーズ」なる言葉を使用していたのは興味深いです。またこれは敵性用語でもあります。

 

なぜ帰るのが五年後になるのかわかりませんが、彼は家族を思い出しては今度こそバクチをやめようと、その時点では切実に反省します。しかし時がたつとその決意も揺らいでしまいます。


南洋の島 


「六月十四日 日曜 曇後晴 (前略)自分は矢晴(やっぱり)○○○をやる。併し今迄の様にルーズなやり方をしない。毎日良いだけやれば、そんな事は何(い)つでも帰って来る予定である。」

 

「六月十八日 木曜 晴 ・・・大宝丸に遊びに行く。二時頃上陸。慰安所に行ってくる。夜る、○○○に行く。方々の借金を支拂(はらい)して現金二拾円持って来る。」

 

どうやらバクチに勝って借金を返済できたようですが、また元の木阿弥に戻ってしまいました。

 

「七月十一日 土曜 晴・・・今日色々と考へる。俺も去年と今年は子供達に申し訳ない事をした。今からでもおそくはない。一日も早く子供の所へ帰るやうにせねばならぬ。一日も早く帰りたいなあ。」

 

と、また気持ちは子供とバクチの間で揺れ動き、しきりと反省を繰り返します。

 

やがて、彼の乗艦している輸送船はガダルカナル島への輸送任務が下ります。ガ島到着後は島での見張所作りのための輸送に従事します。

 

「八月五日 水曜 雨 早朝小さき島の在る所に来る。夜八時出港して間もなく座礁す。我が不注意なのか。」

 

バクチという悪癖を止められずバチが当たったのかと、自分の行いを船の座礁に投影しています。日記はここで終わり、以後の記述はありませんでした。
 

         椰子の木        椰子の木        椰子の木

 

この軍属の日記の総括として、手記の編集者は以下の解説を加えています。

 

「この名も知らぬ『バクチ好きの軍属』は、凡人であり、俗人である。そして、戦時下でも、凡人であり続け、俗人であり続けた人物である。十人、いや五人集まれば、必ず一人はいるような人物だ。」

 

国民みな徴兵制のこの時代、当然兵士の中にも種々様々な人間が存在していました。

 

以上のように、戦時中の社会は一様にみな軍国主義に洗脳された紋切型の人物ばかりだったわけではなく、現代社会のようにバラエティに富む人々が生きていたことが伺えます。