
戦前の朝日新聞は太平洋戦争を支持し、大本営発表をそのまま記事にして戦争の推進役を担っていましたが、戦後は憲法9条堅持を主張する左派になってしまいました。その経緯は何か?
昭和20年3月10日に東京は大空襲を受けましたが、新聞社も例外なく焼け出されました。
日比谷の海軍航空本部に勤務し、特務士官であった二藤忠氏は朝日新聞社の立て直しを手伝うことになりました。以下がその状況です。
「当時、首都東京のきわだった機能の一つは、新聞、印刷、出版などの情報機能であった。この関係の業種はどこも、無差別じゅうたん爆撃によって麻痺寸前に陥っていた。
5月27日以降、在京の各紙は共同で紙面をつくるところまで追いつめられていた。
ある日、朝日新聞印刷局長、ダイヤモンド社社長などが航空本部教育部にやってきて、善後策に協力してくれという。
朝日新聞では、幸い類焼を免れた輪転機5台のうち2台を相模野空の地下防空壕に疎開移転したいとの意向だった。
この計画は、ついに実施前に終戦となったが、部員の命をうけて細目打合わせのために私はしばしば朝日新聞社を訪れた。そのころ、記者連中と雑談していると、彼らはこんなことをいいだした。
『あなたのような海軍の将校さんはいいですよ。陸軍の憲兵や特高には、ほとほと泣かされますよ。こんなことならゼロになって出なおしたほうが、よっぽどマシですよ』
彼らは不思議なほどあたりを警戒し、声をひそめて話すのだった。真意は、この戦争はもう負けだ。同じ負けなら一刻も早く負けてほしい、ついでに軍隊などなくなってくれ、そういいたそうな口ぶりだった。
一国の国民、しかも新聞記者といえば民衆のリーダーである、その彼らからこう思われていては、もう戦に勝てるはずもなく、続行する事さえ困難だった。
事実、5月8日、たのみの盟邦ナチス・ドイツもついに無条件降伏、日本の敗戦も時間の問題となってきた。」
朝日新聞も昭和20年ごろには、もう戦争にうんざりしていたようです。それで戦後は「戦争はもうたくさん」路線に走ったのでしょうか。