
帝国陸軍と海軍の対立は明治時代からの根深いものがありました。
帝国海軍の立場は明治20年代半ばまで弱く、陸軍の従属機関のように扱われていました。
当時の陸軍は、維新後に続発した旧士族の乱を鎮圧したことから、治安維持に無くてはならない存在とされ、強大な力を持っていました。
対する海軍は影が薄く、明治初期の海軍の予算は、陸軍のたった180分の一しかありませんでした。
また「陸の長州、海の薩摩」といわれたように、明治時代、陸軍は長州藩出身者が中枢を占め、海軍では薩摩藩出身者が要職に就いていました。
つまり、陸海軍はもともと
陸軍 = 長州藩出身者
海軍 = 薩摩藩出身者
が幅を利かせていたのです。
ご存知のように薩摩と長州は犬猿の仲でしたが、当時の長州閥は薩摩閥より優位に立っていたため、「陸主海従」という構図が出来上がりました。この辺に陸海軍対立の根本があります。
のち1893(明治26)年、海軍軍令部は陸軍参謀本部から独立して、ようやく呉越同舟から解放されました。
しかしこれ以来、陸軍・海軍で二元化された指揮系統は、太平洋戦争に至ってもついに統合されることはなかったのです。
従ってこれ以降、陸海軍は何を行うにも別行動をとることになりました。例えば海外の大使館を中心とした諜報活動も、日本では外務省、陸軍、海軍がばらばらに情報収集活動を行っていました。
ちなみに米国のCIA、ソ連のKGBなどは、国家単位で諜報と防諜を担当しており、日本と比べても桁違いの諜報機関です。
また日本では陸軍と海軍が別々に航空部隊を編成し、戦闘機の開発や生産も、それぞれが民間企業に発注していたため、資材の割り当てをめぐっていつも対立していました。
双方が協力して開発を行い、資材を融通しあっていれば、もっと効率的に多くの戦闘機が生産できたはずだと言われています。
米軍が先駆けていたレーダーの開発も、陸軍と海軍が別々に行い、技術交流はありませんでした。双方ともに優秀な技術者が揃っていたのに、お互い秘密主義で開発を進めたため、人材をうまく生かせなかったのです。
こうして当時の陸海軍は同じ日本の組織でありながら、意味のない対立を繰り返し、やがて時代の変化に対応する事ができなくなりました。
もっとも、当時の日本は資源も燃料も枯渇していたので、陸海軍の対立がなくても戦争には勝てなかっただろうと言われています。