
「旗艦の長官室で作戦を練る山本長官」
ミッドウェー海戦の続きです。
空母で艦攻の爆弾を魚雷に付け替え終わった午前10時20分、突如米軍爆撃機が現われ、「加賀」、「赤城」、「蒼龍」に襲い掛かり、3空母はたちまち火炎を上げて爆発してしまいました。一瞬の出来事でした。
結局「加賀」、「蒼龍」は沈没、「赤城」は駆逐隊に雷撃処分されました。
唯一残された空母「飛龍」は、攻撃隊を発進させ午後2時40分ごろ、米空母、ヨークタウンを撃沈させました。しかし米軍爆撃機の攻撃により、「飛龍」も戦闘能力を失ってしまい、最期は駆逐隊によって自沈処理されました。
その際「飛龍」の加来艦長と司令官、山口多聞は、「飛龍」と運命を共にし、一緒に海の底へ沈んで行きました。
ミッドウェー作戦の失敗は以下のように述べられています。
「ミッドウェー攻略作戦の失敗は、日本軍の通幣であった情報、暗号解読の重要性を認識できなかったこと、二兎を追うがごとき作戦で、目的が曖昧であったこと、さらに策敵が不十分で、敵に後れをとったこと、航空作戦指導、艦隊編成などさまざまな原因があげられている。
また兵装転換による戦術ミスは、セイロン島沖海戦にもみられたにもかかわらず、また同じ失敗を繰り返した。
過去の失敗を十分に研究せず、戦訓を導き出して次の作戦に生かそうとはしなかった日本軍の硬直性を、このミッドウェー作戦は見事といっていいほど表していた。」
さらにミッドウェー海戦後も何の反省会も行われず、南雲中将をはじめとする要職に就いていた者の責任も誰も問われることはありませんでした。
「永野軍令部総長も、島田海軍大臣も山本の責任を一切問おうとしなかった。」
「山本以下の連合艦隊司令部の顔ぶれも、従来どおりで変更はなかった。」
この処置に『凡将 山本五十六』の生出寿氏は異議を唱えています。
「ミッドウェー海戦で、あれほどの損害を受けながら、その責任者たちに対して責任を問おうとせず、また(山本)自ら責任を明らかにして裁きを受けようともせず、うやむやのうちに不明瞭な人事処置で済ますというのは、どう考えてもおかしいとしか思われない。」
しかし機動部隊旗艦「赤城」艦長の青木泰二郎大佐は予備役に追われ、撃沈された4空母の下級将校たちの多くは最前線に飛ばされるなど、上層部以外には実質的な「処罰」がなされました。
空母「飛龍」
組織下部の下級将校が処罰を受けて、上層部にはお咎めが無くそのままという人事は万人に納得のいく処遇ではありません。
このような組織内での責任の対処法は現代と相通じるものがあって、組織の無責任体質は昨日今日始まったことではないことがわかります。
ではなぜ南雲中将たちは責任を問われなかったのでしょうか。生出氏は次のように見ています。
「山本が、なぜ南雲、草鹿、大石、源田らの責任をきびしく追及しなかったかということについては、いろいろの説がある。しかし、いちばんうなずけるのは、彼らの責任を追及していけば、いきおい山本自身の責任にも至るからだということである。
そのために山本は、部下たちの責任も追及しないかわりに、自分も逆に問われないという道をえらんだように思われる。」