真珠湾攻撃 | 太平洋戦争史と心霊世界

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大破した米軍機 


 真珠湾攻撃の詳細に関しては、ネット上にも膨大な量の情報がありますので簡単に説明します。

 

 日本海軍は米軍基地があるハワイの真珠湾を叩くために、昭和161126日、現在の北方領土の択捉(えとろふ)島から、空母を中心とする南雲機動部隊がハワイに向けて出港しました。


択捉島から 

単冠(ひとかっぷ)湾の艦上から択捉(えとろふ)島を望む

 

 

 ハワイ時間127日(日本時間128日)の朝8時近くに日本海軍はハワイ基地の攻撃を開始しました。ハワイのアメリカ人の中にはドイツ人が攻めてきたのかと勘違いした人もおり、日本軍の攻撃は青天の霹靂でした。米軍の損害は以下の通りです。

 

■戦艦:8隻(沈没2隻、擱座(かくざ)1隻、着底2隻、被弾3隻)

■軽巡:3隻(小破、浸水など)

■駆逐艦:2隻(大破)

他、標的艦、機雷敷設艦、水上機母艦、工作艦に損害

 

真珠湾攻撃と同時にマレー半島では、日本陸軍が石油やゴムなどの天然資源を抑えるための進撃が始まりました。『ジパング』の2巻でもインドネシアの石油採掘地・パレンバンが出てきますが、あの辺を獲得するための行動です。

 

 真珠湾攻撃は以下のような結果をもたらしました。

 

■戦艦に多数損額を与えたため、一見素晴らしい戦果をあげたように見えたが、真珠湾に空母が一隻も停泊していなかったため無傷で温存され、のちの航空機主体の戦いにおいてアメリカの有利な展開となった。

 

 当時は世界的に大艦巨砲主義が信奉されていたため、戦闘のシンボルである戦艦に多大な損害が出れば、米国民の意気も消沈するだろうと山本は考えていた。

 

 真珠湾の水底が浅かったので、着底や水没した戦艦も引き上げて修理し再び現役に就いたため、実際に使い物にならなくなった艦艇はそれほど多くなかった。

戦艦オクラホマとメリーランド
転覆した戦艦「オクラホマ」(右)と爆発炎上している戦艦「メリーランド」(左)

 

 

真珠湾では艦艇だけ攻撃し、石油タンク群やドック・軍工場などは手つかずで引き揚げたので、戦果は不完全な結果に終わった。これが一般的な見かたである。

 

 しかしこの点について『山本五十六』の半藤一利氏は、南雲中将は「真珠湾攻撃が終わったならば、速やかに引き揚げよ」という命令を受けていたと述べている。

 

つまり攻撃目標は「米艦隊」と命じられていたのであり、湾岸施設や石油タンクについては明言されていなかった。従って南雲機動部隊は着実に、果敢に、その命令を実行したまでであり、南雲中将に責任はないと結論付けている。

 

日本の最後通牒の通告が駐米日本大使館の手違いで、真珠湾攻撃の開始時間よりも55分遅れ(ハワイ時間)になってしまった。

 
このため日本は卑怯者のレッテルを張られ、米政府の宣伝も巧妙だったこともあり、アメリカ国民を攻撃で意気消沈させるどころか激こうさせてしまった。
 

 129日のニューヨークタイムズの社説には、「全員一致で日本の気違いどもに勝ち抜こう」というスローガンが掲載された。

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■真珠湾では飛行機で戦艦を叩くという航空戦が行われたため、手の内をアメリカに見せてしまった。

 アメリカでも大艦巨砲主義を信奉していたが、「航空戦で海上作戦は決行できる」と悟られ、飛行機とパイロットの増産に努めるようになる。そのため資源のない日本の航空兵力はたちまち消耗してしまった。