
東京駅を出発する山本中将(左から2番目)
前回述べたように昭和14年頃からアメリカの経済制裁が日本に対して行われ、日本も徐々に追い詰められ最後に日米開戦となるのですが、山本五十六はいつから真珠湾攻撃について考えていたのでしょうか。
文書に残されたものだと一番古いもので1941(昭和16)年1月に、書簡で及川海相に航空機でのハワイ攻撃を進言しています。山本は従来の艦隊決戦ではどうやってもアメリカに勝つことはできないと、誰も考えたことのない方法を考案しました。
海軍内でもこの案は博打に近い、成功する可能性は低いと大反対を受けていたのですが、最後に山本長官が「この案が通らなければ司令長官を辞任する」と恫喝ともとれる言動をとって押し通したと言われています。
あれほど日米開戦を反対し続けた山本が、なぜ一転して真珠湾攻撃を主張するようになったのか。
まず山本の身分は連合艦隊司令長官であり、その権限とは「天皇に直属する海軍実力部隊最高司令官ではあったが、天皇を補佐し、開戦すべきかどうかの意見を申し上げる機関ではなかった」との説明があります。
従って海軍次官を辞めてしまった当時はもう政治に干渉する権限はありませんので、日米開戦も反対を唱えることはできませんでした。
それでは日米開戦を反対し続けたかったら、辞任すればよいではないかとも思います。最近の研究者による評価でも、山本は政治家(海軍次官)としては優秀だったが、軍人(司令長官)としては作戦面などで見るべき成果が上げられなかったとの声が上がっています。
また性格的にも人情に厚い面は政治家向きだと言われていました。
『凡将 山本五十六』の著者、生出寿氏が辞任できなかった理由をこう説明しています。
「山本が、連合艦隊司令長官として、
『対米戦争はやれません。やればかならず負けます。それで連合艦隊司令長官の資格がないといわれるなら、私は辞めます』
といったら、海軍部内はもちろん、世論はどうなるであろうか。その結果、『腰ぬけ』、『国賊』の非難の嵐の中で、山本は連合艦隊司令長官の座を追われることになるに違いない。それを郷土長岡の人びとは、どういう思いで見るであろうか。
山本は、そういうことには堪えきれなかったのではないかという気がする。」
真珠湾攻撃で活躍した97式艦上爆撃機(左・雷撃と水平爆撃)と99式艦上爆撃機(右・急降下爆撃)
山本長官は真珠湾攻撃などの短期決戦を重ねて日本に有利な状況にもっていき、アメリカと交渉して停戦に持ち込もうとの魂胆がありました。しかし実際に交渉は机上で考えるほどそんなにうまくいくのでしょうか。
物量では遥かに日本に勝るアメリカが、日本が少々勝利をあげて停戦を名乗り出たところで、果たして相手はそれを承諾するでしょうか。日露戦争ではロシアとの停戦時にはアメリカが仲介役を買って出ましたが、この戦争では仲介国もいないのです。
今資料を読んでみても、山本長官が具体的にどう停戦に持ち込むかなど、戦争のシナリオが見えてきません。アメリカが停戦に応じなければ、西海岸に上陸して最後はワシントンD.C.まで攻め落とすつもりだったのでしょうか。
海軍というより日本軍全体として、戦争全体をどう行うかという終始一貫した視点に欠けています。
こうして1941(昭和16)年12月8日、日本はハワイの真珠湾を奇襲して日米戦が始まりましたが、見た目の派手な戦果とは裏腹に、実は失敗的な要素も多かったと今日では評価されています。