
海軍次官時代の山本五十六
航空本部長への就任から1周年を迎えようとしていた山本中将は、1936(昭和11)年12月、海軍次官のポストを打診されました。
海軍次官とは海軍大臣の下のポストで、当時の内閣は広田弘毅で、海軍大臣は永野修身(ながの・おさみ)でした。永野は艦隊派(軍備拡張を主張)の中心人物で、軍縮条約の破棄をも辞さない姿勢をとっていました。

永野修身
最初山本は永野を嫌っていたため、就任を断りました。しかし永野に「山本君、君は僕が嫌いなのか」と問いただされたため、山本はしぶしぶ海軍次官を引き受けました。
『図説 山本五十六』の著者、平塚柾緒は山本の性格を次のように表現しています。
「山本という男は人一倍気配りの人ではあったが、一方では人に対する好悪の情が大きくぶれることが多かった。最初、次官就任を断ると言う態度もまた『ぶれる』ほうの一例だったろう。」
「軍内部の上司や同僚・部下以外との接触交渉が多い時間というポストは、清濁併せ呑みつつも、いやなものはいやと言う山本の性格が、どちらかと言えば良い方へ作用したともいえる。」
1937(昭和12)年1月、政党と軍部の対立が激化し、広田内閣は総辞職に追い込まれました。陸軍は総選挙を要請しましたが、海軍の山本次官はこれに反対しました。
しかし永野海相は陸軍と政党の間を仲裁しようとしてこれに失敗、内閣総辞職と共に、海相を辞任しました。
2.26事件後の陸軍は、その武力を背景に、自分の都合のいいように政治を動かし、独占しようとしていました。こうして山本が海軍次官に就任した当初は、陸軍が徐々に日本の政治中枢に干渉しつつあった時期でした。
海軍大臣には山本次官の強力な推薦により、連合艦隊司令長官・米内光政が就任しました。米内は海相への就任に気が進みませんでしたが、「お国のため」と強く薄められて断り切れなかったと弁解していました。

米内光政
歴史研究家の平塚柾緒氏はこの時期、気の進まない米内を引っ張り出し、自らは次官に留任した山本次官には何らかの心境の変化が起こったのではと推察しています。
陸軍の言いなりになっている国内事情を見て、海軍もまた言いなりになりかねないし、海軍がここで頑張らないと、日本そのものが陸軍に飲み込まれてしまうのではないかと山本中将は危機感を感じたのではないか、と述べています。
以後、米内海相と山本次官のコンビは2年6カ月にわたって海軍を支えることになりました。