
中将時代の山本
1935(昭和10)年12月、窓際族の処遇を受けていた山本五十六は、ようやく海軍航空本部長に就任しました。航空本部の本部長と言うポストは、海軍航空軍備の最高責任者といってもよい地位を占めていました。
山本はこのポストが気に入り、何年でもやりたいと常に語っていました。
彼はまた「国防の主力は航空機である。海上の艦船はその補助である。日本海軍はこの信念で大革新をせよ」と主張して、海軍の予算は航空機を中心にすべきであると断じていました。
しかし山本が「航空機を主力に」と主張するほど、海軍首脳との対立が表面化してきました。
1936(昭和11)年、日本政府はワシントン条約とロンドン条約を年末をもって無効とし、無条約下の建艦競争が始まります。 戦艦大和(左)と武蔵(右)
これにより昭和11年7月に巨大戦艦「大和」と「武蔵」の建造計画が決定しましたが、山本はこの計画に反対し、これらの戦艦建造費を航空機や空母建造に回すように訴えました。
山本は、もしアメリカと戦争になった場合、「戦闘機1,000機、中攻機1,000機」が必要であるというのが持論でした。
この山本の主張の正しさは太平洋戦争で証明されましたが、当時の海軍首脳部はまだまだ大艦巨砲主義が大半を占めていたため、山本の主張は受け入れられませんでした。