「青い目の人形」とポトマック川の桜 | 太平洋戦争史と心霊世界

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ポトマック川の桜1


 以前ワシントンD.C.のポトマック川に咲く、日本の桜と共に映っている山本五十六の写真を載せたのですが、この桜にまつわる逸話で日米文化を比較してみます。

 

 ポトマック河畔沿いの桜並木は、1912(明治45)年に日米親善の一環として日本からアメリカに寄贈されたものです。

 明治の終りに来日したアメリカの文化人などが日本の桜を見て感嘆し、これをアメリカに植樹できないものかと考えたのが発端でした。

 

 話はそのうち日本政府にまで広がり、最終的には当時の尾崎東京市長が6,040本の桜の苗を横浜港から出港させ、アメリカに到着してポトマック河畔に植えられました。

 

現在は毎年春になると、ポトマック公園で「桜まつり」が催され、大統領夫人による植樹式や、さくら女王のパレードなどがあり、大勢の人でにぎわうそうです。

ポトマック川の桜2 


 一方ではアメリカから日本には1927(昭和2)年3月、親善の一環として贈られた「青い目の人形」がありました。

 

 この頃は日露戦争後に日本が満州の権益を握り、中国に進出したいアメリカと政治的緊張が高まっていた時代でした。1924(大正13)年にアメリカで成立した排日移民法もまた日本との緊張を高めつつありました。

 

 そんな中、日本にも何回か来日したことのある米国人宣教師、シドニー・ギューリック博士が緊張した日米関係を和らげようと、両国間での親善活動を提唱しました。

シドニー・ギューリック博士 
シドニー・ギューリック博士


「青い目の人形」はその親善の一環として、アメリカの人形12,739体が日本のひな祭りに合わせ3月に、日本へ寄贈されました。人形は全国各地の幼稚園・小学校に配られ歓迎されました。

青い目の人形 送られてきた人形は多くが素焼きで、寝かせると目をつぶったり、身体を起こすと声を発したりするものもあり、一体ごとに身体のデザインや衣装が違っていた。


 しかし太平洋戦争が始まると、「青い目の人形」は敵性人形として敵視され、焼却処分されたり、竹やりで突かれて破壊されたりして、戦後まで残ったのはわずかに323体だけとなりました。

 

当時の新聞も「児童は叫ぶ、叩き潰せ、『青い目の人形』」などと煽り記事を書いていました。

 

 米国から贈られたということで、竹やりで突いて壊したりなど、国威高揚にはなるのかもしれませんが、今振り返ってみると単なるモノに当たるのは少し大人げない感じがします。

 

また戦時中は英語や音楽などアメリカ文化を匂わせるものを使用することも一般には禁止しており、日本政府は敵性のものは排除という方針をとっています。

 これを考えると、日本人は見たくないものには目をつぶって思考停止する習性があるのかと思えてきます。

 

 そして米国の方では桜の木を贈られても戦時中に切り倒すこともなく、戦後の今も桜並木はポトマック川に現存しています。

 

桜という「モノ」に八つ当たりして切り倒しても、残念ながら日本人を倒したことにはなりません。これには米国人のモノはモノとして見るといった、合理的精神が表れている気がします。