高野五十六は兵学校32期生で、入学試験は200名中2番の成績で入学しました。
しかし江田島の海軍兵学校の教育は詰め込み式で、受身の性格や教科書人間には抵抗なく受け入れられるかもしれませんが、発想力・創造力は期待されず、五十六の性格には合わず勉強は苦戦を強いられました。
例えば当時は図書館の重要性が社会で認識されておらず、また図書館を利用するにも敷居が異常に高く、教科書の知識で十分と言う意識が日本人一般に定着していました。
しかし高野はそれだけで満足せず、兵学校在学中も長期休暇が取れると東京へ出かけ、当時最先端であった帝国図書館を利用して、終日書籍を読み漁ったとの逸話があります。
そんな自主的な性格の人間には、季節に合わせた窓の開け方、型にはまった掃除法、生徒の間ですべて規定通りやらなければならない兵学校の環境は地獄のような苦痛でした。入学時に2番の成績で入った五十六は、兵学校1年目には16番となっていました。
兵学校時代の五十六
また高野五十六は寡黙であったとの証言が、兵学校の当時の同期の仲間、同郷の仲間、指導官らから語られています。
しかしその後高野五十六は少し巻き返して卒業時は11番の成績となっていました。このあたりに高野のタフさ、柔軟さがうかがわれると「山本五十六」の著者、田中宏巳は述べています。