
寒そうな新潟県長岡の生家。五十六の勉強部屋は玄関真上のガラス窓の部屋だった
山本五十六は1884(明治17)年、新潟県長岡市で生まれ、養子として山本家を継ぐまで旧姓は高野と言いました。従って養子縁組の前までは高野五十六と呼ぶことにします。彼の父、高野貞吉が56歳の時に誕生したので「五十六(いそろく)」と名付けられました。
貞吉は高野家へ長女・高野美保の婿として入りましたが、美保が夭逝したため次女の美佐と再婚しました。しかし美佐も早世したため、三女の峯(みね)と再々婚しました。

父:高野貞吉、母:高野峯(ミネ)
結婚相手が早世すると、その兄弟姉妹とまた再婚するのは当時では普通でしたが、貞吉の場合は3人ですので珍しかったのではないでしょうか。それにしても昔の人は、3度結婚しても相手を選べないのですね・・・。
五十六は貞吉の3人の妻の間にもうけた7人兄妹の末っ子でした。高野家は代々長岡藩に仕えた儒家で、明治になると父親の貞吉は小学校校長の職を得ました。
前列中央が小学校時代の五十六(9歳)。右が姉の嘉寿子、左が兄の季八、後ろが甥の高野力。(甥の力の方が五十六よりも年上だった)
長岡中学に進学した五十六は、成績も優秀でしたが家の経済事情により高等学校へ進める状態ではなかったため、海軍兵学校を目指したと言われています。
しかし当時としては小学校卒業で終わる日本人が大半だったため、中学へ進む学生はエリートでした。そのため高野家も困窮するほど経済がひっ迫している訳ではありませんでした。
五十六の中学時代のエピソードにこんなものがあります。漢文の高橋と言う教師が、生徒全員に将来の希望を尋ねたところ、五十六少年は「一生に一度、世界をアッと言わせるようなことをしてみたい。」と答えたと言います。
海軍兵学校進学を決意した五十六は、小柄で痩せていたために体を鍛えるため器械体操、剣術、野球に熱中しはじめます。毎日欠かさず登校前、帰宅後に学校に行っては、主に器械体操を練習して徐々に成果を上げ、片腕でも楽々と逆立ちをしたり、逆立ち歩行も簡単にできるようになりました。
彼は逆立ちが得意で逆立ちする場面がジパングにも登場しましたが(15巻)、この特技は中学時代に身につけたようです。