『海底超特急マリン・エクスプレス』は1979年8月26日に日本テレビ系『24時間テレビ 愛は地球を救う2』内で放送されたアニメ特番です。
前年の第1回の同番組内で放送されたアニメ特番『100万年地球の旅 バンダーブック』が日曜日午前10時からの放送であったにも関わらず、同番組内では最高視聴率の28%を記録する好評を得た為に、それに続くアニメ・スペシャル第2弾として企画、製作されました。
第1弾同様に原案・総指揮は手塚治虫。製作は手塚プロダクションが担当しています。
1979年8月26日 新聞のラ・テ欄
1979年の夏と言えば……前年の夏に『スター・ウォーズ』と『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』が公開されSF映画及びアニメーションの大ブームが起きたのですが、それを上回る盛り上がりを見せていました。
『海底超特急マリン・エクスプレス』放送の約1ヶ月前の1979年7月31日には、フジテレビ系でアニメ特番『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』が放送されています。
1979年7月31日 新聞のラ・テ欄
『海底超特急マリン・エクスプレス』も後述の様に製作が大幅に遅れましたが、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』も製作が大幅に遅れています。当初は1979年7月21日放送と告知されていましたが、製作の遅れから10日ズレ込む事になりました。それでも作品の完成は放送当日の午前だったと言われています。上記の新聞のラ・テ欄には出演者として水島裕の名前がありますが、実際には水島裕の出演場面(島大介の弟=島次郎 役だったと言われています)はオンエア版では全てカットされており、製作の遅れの名残りが見られます。(『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』の製作の遅れの要因の1つには西崎義展プロデューサーの会議魔ぶりがあります)
因みに……
1979年7月21日 新聞ラ・テ欄
そして1979年夏の劇場映画に目を向けると……
『スーパーマン』
6月30日公開 新聞広告
『宇宙戦艦ヤマト フェスティバル』
7月14日公開 新聞広告
『指輪物語』
7月14日公開 新聞広告
『エイリアン』
7月21日公開 新聞広告
『ウルトラマン 怪獣大決戦』
7月21日公開 新聞広告
『銀河鉄道999』
8月4日公開 新聞広告
『ゴジラ映画大全集』
8月18日公開 新聞広告
新旧混在ですが、SF映画のオンパレードです。テレビ特番と劇場映画の違いはありますが、手塚治虫が此等の作品を意識していない訳がなく『海底超特急マリン・エクスプレス』の製作には相当な力が入っていた筈です。特に『銀河鉄道999』への対抗意識はかなり強かったのではないでしょうか。「向こうが“銀河鉄道”なら、こちらは“海底超特急”だ」「向こうがキャプテンハーロックやエメラルダスを登場させるクロスオーバー作品なら、こちらはヒゲオヤジ(伴俊作)、ブラック・ジャック、アトム(アダム)、サファイア、シャラク、レオ、ロック他、手塚キャラのオールスター作品だ」……。
ただ、その力を入れ過ぎた為に作品製作が遅延する事になってしまったのです。
前年の『100万年地球の旅 バンダーブック』製作では……原案、脚本、絵コンテ、原画、動画の殆ど全てに手塚治虫が関わり、その拘りが強い為にリテイクを繰り返し、更に手塚治虫が複数の漫画連載を抱えていた事でドンドン製作が遅延したのですが、ほぼ同じ事が『海底超特急マリン・エクスプレス』でも繰り返される事になります。
1979年、手塚治虫は『ブラック・ジャック』『ユニコ』『火の鳥 乱世編』『ドン・ドラキュラ』『インセクター』『どついたれ』『マコとルミとチイ』の連載漫画を執筆していましたし、既にこの時点で1980年3月公開の劇場アニメーション映画『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』の製作にも取り掛かっていたと思われます。
しかも『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』はフル・アニメーションで製作する意向があり、更に『指輪物語』を見た手塚治虫がロトスコープ(実写で撮影した映像をトレースして原画を描く)を採用したいと言い出し、実際に劇中の宇宙船スペースシャーク号の登場場面の一部は、ミニチュアを制作して撮影した映像をトレースしてアニメーション映像を作るという、手間のかかる作業が行われています。
『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』
1980年3月20日公開 新聞広告
それらの作業と一部並行して『海底超特急マリン・エクスプレス』は製作されていたので……アニメ地獄の底が更に深まる形になってしまいました。
何せ『海底超特急マリン・エクスプレス』では手塚治虫の絵コンテを待っていたのでは製作が間に合わないので、手塚治虫が仮眠をとっている隙に他のスタッフが、既に仕上がっている背景とセル画を脚本をベースに組み合わせて、「多分こういう展開になるだろう」という予測の元に撮影を行い、アテレコに回すという無茶をやったと言われています。
製作デスクが過労で倒れ、後任者も倒れ、気が付けば最後は新人スタッフだった井上博明が製作デスクを担当していた…とか、映像が完成しておらず原画の状態でアテレコを指示された声優が「無理」と言って降板した…とか、手塚治虫の拘りの為に作業が遅延する事に激怒した美術の牧野光成が「俺は降りる」と言って帰ってしまったのを、他のスタッフが宥め賺して戻ってきてもらった…とか、オンエア当日の午前3時の段階で未撮影分が山積みであった…とか、『24時間テレビ』番組総合司会の萩本欽一に「アニメ特番は放送が中断する可能性があるから、その際は欽ちゃんのトークで繋いで下さい」とディレクターから指示が出ていた…とか、スタッフが次々に過労で倒れてしまう中で、最後まで倒れなかった唯一無二の存在が手塚治虫だった…等の逸話が伝えられています。
また『海底超特急マリン・エクスプレス』のオンエア当日に手塚治虫は同作品の絵コンテを書いていたという都市伝説がありますが、流石にそれは無かった様です。(後日修正する為のものだったのか、或いは『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』の絵コンテを書いていたのかもしれません。両作品にヒゲオヤジやブラック・ジャックは登場しますから)
その様な苦労の甲斐もあって『海底超特急マリン・エクスプレス』は歴代24時間テレビのアニメ特番の中でも、特に高い人気を誇る作品となっています。
一方…『海底超特急マリン・エクスプレス』放送の約1ヶ月前の7月21日。1973年に倒産した虫プロダクションが再建され、復活の第1作となる劇場アニメーション映画『北極のムーシカ ミーシカ』が公開されています。(本作は いぬいとみこ原作の児童文学のアニメ化作品で、SF映画ではありません)
この“新”虫プロダクションは“旧”虫プロダクションとは会社組織としては間接的な繋がりしかなく、手塚治虫も直接の関わりは在りません。
ただ『北極のムーシカ ミーシカ』には監修として手塚治虫の名前がクレジットされています。(果たして過密スケジュールの中、どの様な形で手塚治虫が本作に関わっていたのか気になります)
『北極のムーシカ ミーシカ』
7月21日公開 新聞広告
上述のSF映画……『銀河鉄道999』を除くと、2024年の時点で新作が製作され続けています。
そんな空前のSF映画ラッシュだった1979年の夏、手塚治虫は確かな足跡を残しています。
『海底超特急マリン・エクスプレス』
1979年 日本
手塚プロダクション/日本テレビ
【出演】
富田耕生
武岡淳一
八代駿
野沢那智
清水マリ
勝田久
大塚周夫
太田淑子
肝付兼太
内海賢二
【演出】
手塚治虫
出崎哲
【総指揮】
手塚治虫