ライザのアトリエのフィギュアについて批判があり、それに対してアイドルが異論を唱えたということです。

が、アイドルがいうような「現実と空想の違い」とかではなくて、「社会の風潮に流される、”確固たる価値観”のない人が多いのではないか」と私は思います。


話題のフィギュアが、「ライザのアトリエ」の主人公の少女をモデルにしたフィギュアで、着替えを覗かれて怒っている場面をフィギュア化したそうです。

それに対する、批判意見、覗かれて涙目で嫌がっている様子をエンタメにするのは良くないというのは、たしかにその通りでしょう。

もしも現実に着替えをのぞくような性的嫌がらせがあって、女性がそれに抗議するのを、周りの男性がニヤニヤしながら眺めていたら、最悪に悪趣味です。

批判意見は至極正しいです。


ただ、確認したいことがあります。

その主張は「昨今の”女性を性被害から守ろう”という意識が強くなった社会の価値観に影響されているだけではないか?」ということです。


例えば、毎年今の時期には名探偵コナンの劇場アニメが公開されるかと思います。

名探偵コナンに限らず、探偵や刑事が主人公で事件の謎を追うようなお話では、殺人事件はつきものです。

でも、そのようなお話に対して「殺人なんて犯罪をエンタメ化しているからクソだ」という人がいますか?

で、「頼む、殺さないでくれ」と命乞いをする被害者を、殺人者が怨恨から無惨に殺しても批判しないのに、女の子の着替えやお風呂をのぞくのは猛烈に批判する。

刑法の法定刑の重さでいえば、着替えをのぞくよりも人を殺す方がずっと重い罪ではありませんか?

でも、殺人は批判されないのに、のぞきは批判される。

なぜですか?

殺人を批判しないということは、「犯罪をエンタメ化するのはダメだ」という認識ではありませんよね?

殺人には声をあげないのに、のぞきはダメだという、その違いは何ですか?

罪の重さじゃない、単純に社会の風潮ですよね?


例えばニセコイは漫画が原作ですが、テレビアニメにも実写映画にもなった有名作品です。

2010年代の作品ですから、ほんの十年程度しか経っていません。

私はテレビアニメを観ましたが、作中で主人公の楽君は女湯に入って同級生女子の裸をのぞきましたよ?

修学旅行か何か学校行事で温泉宿へ泊まって、クロードさんが、温泉の男湯と女湯ののれんをすり替えました。

クロードさんはヒロインでアメリカギャングのボスの娘である千棘ちゃんの、ボディーガードです。

楽君と千棘ちゃんの仲を妨害しようとしている人です。

騙されて女湯に入ってしまった楽君は、同級生の女子高校生達の裸をのぞきました。

ドラえもんでのび太君がしずかちゃんのお風呂をのぞいてしまって、しずかちゃんが「のび太さんのエッチ」と悲鳴をあげるのは、昔はよくありましたよね?

男の子がアクシデントで女の子の着替えやお風呂をのぞいてしまう、または、男の子が故意に温泉の女湯をのぞこうとして失敗する、もしくはまれにのぞきが成功するなど、アニメの作中で女湯をのぞく行為は昔から珍しくありません。

男性キャラクターが女性キャラクターの着替えやお風呂をのぞく場面のあるアニメのタイトルを列挙しろと言われたら、私は片手の指で足りないくらいはすぐに思い付きますよ?

昔から珍しくないのに、今まで批判されなかったものが急に批判されるようになったのは、正しいかどうかではなくて、単純に社会の風潮でしょう?

「私は社会に流されているんじゃない!確固たる自分の意思で善悪を判断しているんだ」という人もいるかもしれません。

けれどもそのような人達は、もっと昔から、「ドラゴンボールの亀仙人が美女のオッパイでパフパフするのは女性蔑視だ」と言ってきましたか?

「水戸黄門は入浴シーンで視聴率を稼ぐ下品な時代劇だ」と言ってきましたか?

ましてや殺人や身代金目的の誘拐など、のぞきよりも重大な犯罪が繰り広げられる名探偵コナンを批判したことはありますか?

踊る大捜査線などの刑事ドラマはどうでしょうか?

社会に影響するほど多くの人が、”昔から”そのような主張をしてきたということはありません。

現に、世の中でそのような意見が注目されるようになったのは最近のことです。

結局のところ、昨今の社会の風潮で、急に批判の声が大きくなったのではありませんか?


ですから、確固たる意思によって善悪の判断がされるのではなく、社会の風潮によって選択的に、殺人のような重大犯罪は批判対象に選ばないのに、のぞきのような性的なものには敏感に反応して批判するという矛盾が生まれます。

これは「社会の風潮が実際の是非善悪と一致するとは限らない」ということで、「社会は善悪と矛盾することもしばしばある」ということでしょう。

今回、ライザのフィギュアに批判的な意見をいう人は、社会的な今の流行を正義であるかのように振りかざしているだけだと思います。

だから、殺人事件には何の批判もしない、都合のいい選択的な正義を声高に主張するのです。

ライザのフィギュアへの批判だけを切り取れば理はあるのですが、都合のいい選択的な正義であって、その主張は決して正しくはありません。


正しくないんだけど、でも、都合のいい選択的な正義で、重大犯罪である殺人や身代金目的誘拐を強く批判しないという矛盾は社会の仕組みというか、多くの人は流行に流されて確固たる意思判断を持たないのは良くあることなので、しょうがないです。

世の中のみんなが考えるのが得意だなんてことはありません。

しょうがないことだけど。