ゆたぼん君は学校へ行かないで貴重な経験をしたのだと、パパさんは言います。

まぁ、他の人と違う経験をしたことは事実でしょう。

ただ、学校へ行く子も行かない子も学びの機会が保障される社会にするのが大人の役目だとか、そういう主張はおかしいです。


おかしいというか、明らかに主張が世の中とズレています。

パパさんの主張として、「学校へ行く子も行かない子も学びの機会を保障されるようにするのが大人の役目」ということは、「学校へ行く子も行かない子も学びの機会が保障される状態」を理想としているわけですよね?

これが高校受験に不合格だったゆたぼん君について言っていることで、「学校へ行かない子(ゆたぼん君)にも学びの機会が保障されるべき」いう話ですから、ここで保障されるべき学びの機会というのは、高校での勉強のことですよね?

パパさんには世の中の理屈がわかっていないように見えます。

高校での学びの機会は保障されません。

なぜなら、日本の義務教育は中学までだからです。

中学までは、敢えて自分の意思で私学を選ばない限りは、公立の小学校、中学校はタダで授業を受けられます。

なぜタダなのかといえば、国や自治体が税金を使って勉強させてくれるからです。

この義務教育が、日本国内で全ての子どもに保障された学びの機会です。

けれども高校は義務教育ではありません。

入学願書を出して、「入学させてください」とお願いをして試験を受けます。

そして、学校側はその入学試験の結果によって入学させる子供を選んでいい権利があります。

高校に学びの機会の保障はありません。

入学試験に合格しなければ、その機会は与えられないのです。

これが日本の国の制度であって、この国の世の中の理屈です。

高校へ入学して勉強する機会は、保障されるべきものではないし、保障される世の中を実現するのが大人の役割だというのも、ただのパパさんの勘違いです。


さて、それから内申点は無くなるとか、ゆたぼん君は学校へ行かないで代わりに貴重な経験をしたとかいうお話ですが、それもまたお話になりません。

だって、高校の入学試験の試験官も、中学の先生も、神様じゃないので見たことしかわからないし信じられないのです。

もしも、仮にゆたぼん君が「俺は中学へ行かずに、小学校3年から中学校3年まで7年間かけてお父さんと一緒にツチノコを探して、発見した。捕獲には失敗したけど、ホンモノのツチノコを見たのは史上初の、人類初の快挙だ。俺は生物学者になる」と言ったとして、彼が7年かけて取り組んだものを、一体誰が評価できますか?

捕獲したツチノコの実物がいるわけでなく、本人の証言だけで、「俺はツチノコを見た」というのを、どうやって評価できますか?

一緒に探してツチノコを目撃したパパさんは「うちのゆたぼんはホントにホンモノのツチノコを発見したんだ。すごい子なんだ」というかもしれないけど、世間はそんな話を信じないし、評価しません。

毎日学校へ来て真面目に勉強していた子供達の取り組みは、先生が見て評価し、内申書に書くことができます。

毎日必死で練習をして部活動の大会で結果を残せば、これも内申書に書くことができます。

でも、学校へ来ないでYouTubeや日本一周をしていた子を、学校の先生はどうやって評価できますか?

パパさんが「ゆたぼんは貴重な経験をした」と言ったとしても、そんなものは「うちの子はツチノコ見つけた」というのと同じです。

だから、学校へ行かないゆたぼん君の内申書の評価が低いのは、当然のことだと思います。


「数年後に内申書は無くなる」というパパさんの主張も、妄想だと思います。

だって内申書が無くなったら、生徒会や学級委員長などクラスや学校を支える重大な役職を務めたり、部活動で頑張って練習に励んだり、そういった学科試験では評価できない子供達の人間性を認めてあげることができなくなってしまうじゃありませんか。

内申書が無くなるというパパさんの予想する未来では、学科試験の点数だけで入学試験の合否が決まるのでしょうか?

それとも、面接試験で「僕はツチノコを見つけた」などとホラを吹いた人間が努力を認められて合格するのでしょうか?

パパさんのいうことは、おかしなことばっかりです。