記事に取り上げられているコメントによれば、本人に悪気がなくてファンが盛り上がっているんだからいいんじゃないか、というのですね。

同性婚に賛成か、反対かの立場でいえば、私は反対です。

「個人の価値観として”私は同性が好き”というのは多様性のひとつとして認めたい」と思いますが、戸籍法などの法律で定められた社会制度として、「個人の価値観の枠を超えて社会全体で認めるべきか」というと、話は別です。

社会、つまり種としてのニンゲンの在り方としては、異性と結ばれて子供を作るのが、生命としての自然な在り方です。

なぜなら、「種の保存」というものがなければ、人間だろうと他のどんな生き物だろうと、今いる個体が死に絶えた時点で絶滅するからです。

命が次世代に繋がりません。

社会としては、ニンゲンという種が繁栄することを目指すべきでしょう?

個体数が増えれば、その中には優れた個体も出てくるはずです。

だから、個人の価値観としては好きにすればいいけれど、個人の価値観の枠を超えて社会全体で認めることには反対なのです。

が、同性婚の是非善悪ではなくて、記事で紹介されているネット上の意見として、そもそも反論するファンのコメントが、反論になっていません。

だって、批判する方は、「同性婚のために裁判までしているような人を傷付ける」ということを理由に、「エイプリルフールのウソだとしても、誰かを傷つけ不快にさせるウソは良くない」と言っているはずです。

趣旨としては、「傷付く人がいるんだから配慮しなさいよ」ということです。

それに対して、「本人に悪気がなくてファンが盛り上がっているならいいじゃないか」というのは、つまり、傷付く人の存在を無視して「私達が楽しければいいんだ」という主張をしていることになります。

例えば「子供の学校のイジメで、複数名のいじめっ子が楽しむことができれば、たった1人のいじめられっ子がどんなに傷付いても構わない」というのも、「みんなが楽しめれば一部の人が傷付いても構わない」という理屈ですよね?

あるいは、動物を虐待して楽しむ残忍な行為は、被害者となる人間がいません。

動物愛護の点から間違いなく悪いことだけど、動物は法律上は物として扱うから、ペットの迷子は遺失・拾得(落とし物、拾い物)だし、野生の鹿や猪などの動物と接触する交通事故は、動物が死んでも死亡事故ではありません。

車の運転手にケガがなければ物損事故です。

そして、道徳的善悪はともかく、古代ローマの円形闘技場で剣闘士が命がけの戦闘をする見せ物が市民の娯楽であったように、人間には「残虐なものを見たい」という欲望があるので、動物虐待を「楽しい」と感じる人もいます。

ただ悪意無く、自分達が楽しむための行為であるなら、犬猫をモデルガンで狙い撃ったり、池の鴨にボウガンの矢を打ち込んだりしても許されましょうか?

それらの行為はつまり、ユーチューバーのファンの人達の言う「本人に悪気がなくて自分達が楽しめること」という条件の範囲内にある行為です。

「本人に悪気がなくて、自分たちが楽しめれば良い」というのは、被害者の存在を無視した考え方。

対して、批判する側は「傷付く人がいるから配慮しなさい」というのは、被害者の存在を意識した考え方。

だから、そもそも、「同性婚を認めてもらうために裁判までして苦しんでいる人がいるのに、同性婚を安直にエイプリルフールのウソのネタにするのは誰かを傷つける行為だ」という批判に対して、「悪気はないしファンは楽しんでいるから良いじゃないか」は、「私たちが盛り上がれるなら被害者なんかどうだっていいじゃないか」という開き直りです。

反論になっていません。

反論というのは相手の意見に対して反対の意見を論じるから反論なのであって、相手の意見を無視して自分の言いたいことを主張するのは反論ではありません。

理屈の通じない、子供が駄々をこねるのと同じワガママです。


ユーチューバーのファンの人達は、「私達は盛り上がっているんだから(傷付く人がいても)いいじゃないか」って、本気で言っています?

「私が楽しければ他の誰かが傷付いたって構わない。他の誰が泣いていようとも”私が楽しめる”ことが何より最優先」というのが、あなた達の推しているユーチューバーの価値観ですか?

ファンの言動がユーチューバーの評価に返ってくることを意識していますか?