弥助に関する歴史問題について | 坂本雅彦のブログ

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作家、国会議員秘書、教員、学者

 初めにお伝えしておくが私は歴史家でも歴史愛好家でもない。ゲームもパックマンやドンキーコング以来ほとんど嗜んだことがない。少年時代も青年時代もボードゲームやカードで遊ぶ程度で日常は野球やボクシングに打ち込んでいた。私には流行りのテレビゲームが入り込む余地はなかった。どうやら最近ではコンピューターゲームなどの腕を競うeスポーツが生まれ国際大会も開かれるようになっているという。IOCはeスポーツに触手を伸ばし将来のオリンピック正式競技入りを検討するに至っている。コンピューター機材の前に座ってスポーツ競技を仮想空間で競うなんて私にはSF的に思えて時代の変遷を感じてしまう。

 そうした中で今年11月に発売予定のフランスUBIsoft社が手掛けるアサシンクリードシャドウズというゲームソフトに端を発して日本のみならず海外を巻き込んだ熾烈な論争が起きている。ピクシブ百科事典によると問題の概要は以下のようにある。

 

 『アサシンクリード』とは、UBISoft(以下「UBI」)によるアサシン(暗殺者)を主役とした潜入アクションゲームシリーズである。

シリーズを重ねるごとに様々な時代や地域が題材に選ばれ、2024年11月15日発売予定の『アサシンクリードシャドウズ』では初めて日本が舞台になることが発表された。

しかし、主人公のひとりが日本人ではなく黒人の「弥助」であったこと、またゲームPVに明らかに不自然な日本要素が散見されたことで不満を抱いた多くのユーザーによって炎上騒ぎとなる。

……だがこれはほんの切掛けにすぎなかった。ゲームの詳細や様々な事情が明らかになるにつれ、炎上要素が山と積みあがっていき、もはやアサシンクリードシャドウズというゲームや開発元のUBIを飛び越え、世界的なポリコレバイアスや特定人物による歴史の捏造まで議題に上がるとんでもない騒ぎが持ち上がったのである。

 

 今回、ゲームソフト内における外国人にありがちな間違いや誤解を論うことはしない。それは他者にお任せする。本来、民間事業者が開発販売するゲームソフトの内容についてその是非を問う必要などないし、表現の自由は憲法で保障された権利である。日本でもフランスでもその権利は保障されている。併せて検閲も禁止されていることからよほどのことがない限り表現の自由が制限されることは無い。ゲームはゲームとして自由に表現しコンテンツを構成すればよい。アサシンクリードシリーズについてUBIは"Inspired by historical events and characters. This work of fiction was designed, developed and produced by a multicultural team of various religious faiths and beliefs"としてあくまで歴史フィクション作品という扱いである。一方、アサシンクリードシャドウズのゲームディレクターを務めるCharles Benoit 氏はXboxのインタビュー記事で“We’re showing real historical figures, such as Oda Nobunaga and a lot of events that happened during that time,”と答えている。これを多くの批判的な立場にある人物が「実在した歴史上の人物や当時の出来事を忠実に描いている」と訳すことで「歴史に忠実に描いていない」ということを非難することに繋がっているのだろう。だが、インタビューの原文には「忠実に描いている」というフレーズは見当たらない。よって、UBIはフィクションをフィクションとして描くことを明らかにしており、そこに齟齬は見当たらない。ではなぜアサシンクリードシャドウズに多くの批判が集まるのか。それはいい加減な歴史考証や既存著作物の無断盗用が発覚したことによる。「関ヶ原鉄砲隊」(任意団体)の画像や「相馬野馬追」の画像など無数の画像盗用が確認されている。桜の時期にコメの豊作を喜ぶという季節感の錯誤。スタッフインタビューでの「日本では斬首は珍しい光景ではなかった」という誤認。日本語吹替版のトレイラーに中国語の字幕を表示するミス。二条城障壁画を無断で模写し改変して使用。営利目的使用を禁じている東大寺大仏殿の八角燈籠を無断使用。神社で線香を焚いている。上座と下座の概念がない。弥助の幟に豊臣の家紋を使用。甲冑に記された織田家の家紋が上下逆。関ヶ原鉄砲隊の画像のアートブックでの使用許可を得たという発表が虚偽であったことが判明。次から次へアサシンクリードシャドウズに関する不始末が発覚し炎上が拡大していった。そして、最も問題とされるのが主人公の一人である黒人の「弥助」についてである。UBI公式は弥助を「圧制者から日本を救う伝説の侍」と誇張表現している。フィクションだから受け流すが、圧制者とは誰を指しているのか。理解しがたい弥助の紹介が「弥助の正体」へと多くの人が関心を移すこととなる。

 弥助に関する情報は多くない。現存する歴史的資料としては信長公記、家忠日記、Luis Froisによる1581年イエズス会日本年報、Lorenzo Mesiaによる1581年イエズス会日本年報、Luis Froisによる1582年イエズス会日本年報だけしか残されていない。それぞれの記載内容を確認する。

 

 信長公記(太田牛一写)「二月廿三日きりしたん国より黒坊主参り候年之齢廿六七と見えたり、惣之身の黒き事牛之如彼男健スクやかに器量也爾シカも強力十之人に勝スグレたり」→キリストの国から黒い男が来た。歳は26歳か27歳に見える。がっちりした体形で牛の ようだった。健康そうで体格がよく、しかも力持ちであった。

 信長公記(尊経閣本)「然に彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候」

→弥助と名付けられて、給料が払われていて、装飾をされた短刀と家を与えられ、時々道具持ちなどを仰せつかていた。

 Luis Froisによる1581年イエズス会日本年報

→復活祭に続く月曜日、信長は都にいたが、多数の人々がカザの前に集まって黒奴を見ようとしたため、すごい騒ぎになって投石の為にけが人が出て、死にそうになった者もいた。多くの人が門を警備していたにもかかわらず破壊されるのを防ぐのは困難だった。もし金儲けの為に黒奴を見世物にしたら短期間で8千から1万クルザードを稼ぐのは容易だろう。信長も黒奴をみたいというのでバードレオルガンティーノが連れて行った。大変な騒ぎの中、黒奴の肌の色が自然であって人工ではないことを信用せず、帯から上の着物を脱がせた。信長は子息を呼んだがみんなとても喜んだ。大阪の司令官である信長の甥もこれを見て非常に喜び銭一万を与えた。

 Lorenzo Mesiaによる1581年イエズス会日本年報

→黒人を一人同伴していたが見たことがなかったので都では多くの人が見に来た。信長も見たことがなかったので墨を塗ったものではないことを容易に信じなかった。何度も見て少し日本語を話せたのでたっぷり会話した。力持ちで芸が少しできたので信長は喜び護衛をつけて市内を巡らせた。彼を殿にするようだという声もあった。

 家忠日記「十九日、丁未、雨降、上様御ふち候、大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云」

→19日の雨の降る昼下がりに上様のお付の者がやってきた。連れてきた黒い男は身長188cmで名前は弥助という。

 Luis Froisによる1582年イエズス会日本年報

→「ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣に弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として、南蛮寺と命じた」

 

 以上が弥助に関する資料のすべてである。上記にないものはすべて憶測と言って良いと考える。弥助に関する歴史的資料が非常に少ないことから俄然注目されるようになったのが、トーマスロックリー氏の著作「信長と弥助、本能寺を生き延びた黒人侍」(太田出版)である。この著書を著わすほどの弥助に関する史実は無い。上記に記した歴史的資料に残された情報以外は壮大なファンタジーである。トーマスロックリー氏も推測や憶測、希望的観測であることを隠しはしないが、問題は時代考証がハチャメチャであること。例えば、「地元の名士の間ではキリスト教徒であろうとなかろうと、権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まったようだ。」“ようだ”と付せば何を書いても良いというわけではない。フィクションは歴史的資料が僅かしか残されていない弥助に関する推測であって背景となる時代考証は確かなものだと受け止める読者も少なくないだろう。弥助は扶持を与えられていたことが資料に記されていることから奴隷ではないだろう。黒人を雇う日本の名士はいたが日本国内でアフリカ人奴隷を使うことが流行ったという史実は残されていないはずである。ルシオ・デ・ソウザ & 岡美穂子「奴隷たちの世界史」によると

 

「航海王子」の名で知られるアヴィス朝のエンリケ王子(1394~1460年)の指揮下でポルトガルは本格的に海外進出に乗り出します。16世紀以降、新大陸の金鉱脈発見などにより金の価値が下落し始めると、奴隷が主要な貿易商品となっていきます。ポルトガル人たちはサブサハラ諸王国間の戦闘で発生する捕虜やムスリム商人との取引で、無尽蔵に奴隷を入手することができていました。

 

アフリカ人奴隷を確保し奴隷貿易を本格化させたのはポルトガル人である。17世紀にはいるまでは奴隷貿易はポルトガル人の独占状態であった。同著では

 

日本で布教活動を始めていたイエズス会は、ポルトガル人の貿易活動全般に関わり、16世紀末までは決して積極的とはいえないまでも、人身売買にも関与していました。ポルトガル人が日本で購入してよいのは「合法の奴隷」のみとされており、その合法性を証明する「セデュラ」と呼ばれる保証書を発行するのはイエズス会宣教師の仕事であったからです。

 

と記されている。大航海時代の寵児であるポルトガル人は日本人を奴隷として世界各国に輸出していた。ポルトガル人の奴隷貿易はインド人に始まりアフリカ人、アジア人にまでラインナップを拡大していった。では、日本国内でアフリカ人奴隷が流行したのか。トーマスロックリー氏の著書にある「イエズス会は清貧の誓いを立てて奴隷制に反対しており、通常はアフリカ人を伴うことはなかった」は相当違う。イエズス会は岡美穂子氏も指摘しているが国籍を問わない下人を伴っている。そして、ポルトガル人は奴隷貿易に立役者であり、イエズス会は日本人奴隷を世界に輸出する供給側の既得権益者である。イエズス会はトーマスロックリー氏の著述とは真逆の存在と察する。8世紀半ばくらいまで日本にも官奴婢・私奴婢が存在していたのは事実。日本に差別階級が存在したのも事実。渡来人が奴隷を連れていたことがあるのも事実。だが、弥助が黒人奴隷の流行の発端になったかどうかは資料が残っていないのだから誰も知らないはず。そういう意味でトーマスロックリー氏の記述は不確定なものと言える。

 トーマスロックリー氏の「信長と弥助」には以下のような出版社による紹介文が記されている。

 

1582年、本能寺。織田信長の側近のなかに、特異な容貌でひときわ眼を惹く男がいた。その男こそ、日本史上初とされる黒人侍、弥助だった。信長の切腹後、弥助は危険をかえりみず、嫡男の信忠のもとへと走る。彼を駆り立てたのは、自分を信頼し、侍へと取り立てた信長への忠義心だった……。

国内のみならず海外でも注目を集める異色の黒人侍、弥助。その知られざる生い立ちから来日にいたる経緯、信長との出会いと寵愛、本能寺後の足取りまで、詳細に踏み込んだ歴史ノンフィクション。

 

 弥助に関する情報はほとんど残されていない。新しい歴史的資料が発見されない限り弥助の生い立ちや来日の経緯など知りようもない。ノンフィクションとすることには偽りがある。本文の中にも推測と銘打っているように内容はフィクションに過ぎない。英語版であるYasuke: The true story of the legendary African Samuraiも誇大したタイトルをつけていて問題がある。「伝説のアフリカ人侍の実話」と解せるがこちらもその内容はフィクションに他ならない。「信長と弥助」とはタイトルも内容も違うことから別物の作品であろうが、いずれにせよ弥助に関する多くの史実は残されていない。

 トーマスロックリー氏の生み出した凡そ学術的ではない弥助像が世界中に広まりつつある。弥助に関してのみならず誤った世相や慣習まで一緒に広めることになってしまっている。「当時の日本では黒人は差別されておらず、むしろ尊敬されていた。なぜなら日本の寺院では仏像が黒く描かれていたからだ」という記述があるがイエズス会日本年報には「家臣に弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として、南蛮寺と命じた」とあることから寧ろ差別されていたのではないかとも思える。トーマスロックリー氏の作品には明らかな憶測が断定的に著わされており多くの批判を受ける要因となっている。

 インターネット上では活発な議論がされつつも論点が独り歩きし問題をややこしくしている。「弥助の存在が日本国内の名士の間で黒人奴隷を持つ流行となった」という真偽不確かな記述がいつの間にか「日本が黒人奴隷制度を世界に広めるきっかけを作った」などと内容が変貌をしている。誤った情報はセンセーショナルであるほど独り歩きするものだ。

 トーマスロックリー氏は日本大学准教授とはいえ語学教師である。歴史家としての実績は乏しい。当該の弥助に関する著述を学者として記したのであれば大いに問題があるが小説であることを前提としていればここまで大きな問題にはならなかったであろう。憶測と空想に裏付けはない。トーマスロックリー氏は自身の未発表の論文や弥助に関する著書を引用先としてWikipediaなどの編集を自分で行ったことが問題をこじらせた。弥助に関するWikipedia情報をトーマスロックリー氏が作成し、情報の根拠とする引用先を自身の未発表論文や自身の著作とし、アリバイ工作を行った。フィクションを裏付けるのはフィクションしかない。トーマスロックリー氏は約3年間にわたりWikipediaの弥助に関しての情報を独占することで自書の内容を正当化しようとした。もしこのような行為がバレずに史実化することが可能なら歴史の改ざんは容易に為せることということになる。当然、隠し切れずにトーマスロックリー氏の行為は発覚し非難を浴びている。

 さて、吉田清治という人物を覚えているだろうか。そう、『朝鮮人慰安婦と日本人』という書作を世に出した人物である。吉田氏は済州島など朝鮮での「慰安婦狩り」の当事者として多くの証言を作品として残すだけでなく、多数の戦後補償の裁判や講演会で証言し、新聞や雑誌での報道に利用されてきた。朝日新聞は都合18回、北海道新聞やしんぶん赤旗でも複数回にわたり吉田氏の証言が記事の中で装用されている。その結果、韓国ではいるはずのない強制連行されたと宣う元慰安婦が現れて日本政府への賠償訴訟を提起するに至っている。1992年の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書でも吉田の著書が証拠として採用されている。2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した際にも吉田証言が事実認定の有力な証拠のひとつとして用いられた。2012年9月5日に朝鮮日報は、社説で吉田氏の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分である」として強制連行の証拠であるとしている。吉田氏の著作が朝日新聞のみならず韓国報道機関や裁判所までが事実を裏付ける証拠として扱うに至っている。ところがである。この吉田氏の著作や証言の裏付けはほとんどといって良いほど取れないことが発覚する。韓国国内での調査においても日本国内の調査においても吉田証言に沿うような言質は取れなかった。むしろ、吉田氏の記述や発言を否定する言質ばかりが聞かれる。それだけではない。吉田氏は自身の経歴や養子にした息子の戦死なども虚偽であったことが発覚する。

 1983年以降、朝日新聞はすべての吉田氏に関わる記事を取り消し「虚偽の証言を見抜けなかった」として謝罪している。北海道新聞もしんぶん赤旗も同様に記事を取り消した。1996年に週刊新潮のインタビューで吉田氏は「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。」と完全に開き直った発言を残している。

 問題なのは吉田氏本人が虚偽を認め、新聞社が記事を取り消しても、一度出回った情報は完全に消し去ることは不可能だということ。日本政府による慰安婦の強制連行は実しやかに世界中を駆け巡り日本バッシングのプロパガンダとして利用され続ける。旧日本軍慰安婦の少女時代をモチーフとして作成された慰安婦像は韓国ソウルの日本大使館前に設置されて以降、アメリカ合衆国・カナダ・オーストラリア・中華人民共和国・中華民国・ドイツに、次々と設置されている。現在では韓国国内に100か所以上も設置されている。サンフランシスコに慰安婦像が設置されたことに対して大阪市は抗議して姉妹都市を解消するに至った。独り歩きした虚偽情報に起因する行為が国際的な関係悪化を招いている。

 吉田清治という人物が為した証言は虚偽であることが公に明かされたものの、事実ではない情報は未だに消し去られることなく広く認知されたままにある。

「群集の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが忘却力は大きい」19世紀のフランスの社会心理学者ル・ボンの作品「群集心理」の一文である。群集の特徴として、物事を深く理解することができないばかりか何もかも瞬く間に忘れてしまうという特徴を指摘している。自分が虚偽の証言に騙されたと理解できない人民は多く、記憶はそのまま放置される。おいてきぼりになった間違った情報を打ち消す手段は多くない。情報を発信することは独りよがりでもできることだが、発信した情報を完全に消し去ることは不可能に近い。そう考えると吉田証言は凄まじく罪深い。国家や先人を冒涜する許しがたい行為だ。そして、軽率に虚偽情報を発信し続けた朝日新聞ら報道機関の責任は重大である。

トーマスロックリー氏の著書によって日本のみならず各国に拡散された情報には不確かなものが多い。拡散された間違った歴史認識が外国で根付いてしまう可能性も否定できない。何より、一度発信された情報を完全に消し去ることは不可能に近い。人の関心は長続きしない。間違った情報は間違ったままに放置され存在することになる。問題を不用意に煽る必要はないが、事実に基づかない歴史の上書きは国家として容認するべきではない。不用意な介入は表現の自由を妨げる。とはいえ、「虚偽の風説を流布」することは信用棄損や名誉棄損などの罪に問えないのだろうか。歴史の上書きは共産党の得意技、油断してはならないという警鐘をここに記しておきたい。

 

参考

信長に気に入られた黒人男性、弥助 そしてアサシンクリードシャドウズについて

浜田聡ブログ

https://www.kurashikiooya.com/2024/07/11/post-18998/

信長に気に入られた黒人男性、弥助(やすけ)そしてアサシンクリードシャドウズについてご相談いただきました 

https://www.youtube.com/watch?v=niTMszqEXO8&t=547s

信長に気に入られた黒人男性弥助(やすけ)について一次資料を調べる予定です そしてトーマスロックリー氏の著書も調べます

https://www.youtube.com/watch?v=MEDOIAa8zmQ

黒人男性弥助(やすけ)、アサシンクリードシャドウズ、トーマスロックリー氏について東京大学の岡美穂子准教授のご意見を紹介します 浜田聡YOUTUBE

https://www.youtube.com/watch?v=fv8zdy5usds

アサクリ新作が酷すぎ…"弥助問題"と10年間世界を騙したWikipedia&教授について解説します【アサシンクリードシャドウズ】

https://www.youtube.com/watch?v=TchyBpHZ9MQ

【ゆっくり解説】アサシンクリードから発覚した日大准教授の歴史捏造問題、内容がやばすぎたうえに擁護派が悪魔の証明求めだして炎上

https://www.youtube.com/watch?v=G3Q9OMPfkYg

【ゆっくり解説】炎上中のアサシンクリード、取り上げたAbemaもしっかり炎上した模様

https://www.youtube.com/watch?v=_cZz0rGtFFI

アサシンクリードシャドウズ炎上騒動 ピクシブ百科事典

https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%BA%E7%82%8E%E4%B8%8A%E9%A8%92%E5%8B%95

アサシンクリードシャドウズにおける憶測、デマに基づく批判論

https://note.com/clever_pipit4580/n/n56e3e1ad6c5d

弥助に関する全歴史的資料 negi.moe

https://www.youtube.com/watch?v=gt6t0Yza6nQ

ソウザ & 岡「奴隷たちの世界史」

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/111314/6983546e84df69bec55aa8d68198ccd6?frame_id=644859

吉田清治 Wiki

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%B8%85%E6%B2%BB_(%E6%96%87%E7%AD%86%E5%AE%B6)

慰安婦像 Wiki

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F

日本大学准教授、弥助問題、デマが問題追及の障害に 「日大経歴抹消→まだある」「NHK番組抹消→去年から消えてる」他多数

https://togetter.com/li/2405465

ル・ボンの歴史的名著『群衆心理』、その「最高の読みどころ」「読んでると恐ろしくなる部分」を読んでみる

https://gendai.media/articles/-/106963