いろいろなHPを読んでいると新たな発見があります。
聖書の内容に矛盾した箇所や聖書に書くべき事かと疑うような記述が見られます。
まず新世界訳 旧約聖書創世記の第1章と2章についてです。
ここでは動物、植物、人間の作られる順序が違います。
創世記第1章: 動物→人間(男女)→植物
創世記第2章: 人間(男)→植物→動物→人間(女)
このようになったのは、作者の違う創世記の物語が複数存在し、後の世に一つの物語にまとめられという歴史があるようです。1章では単に「神」と言い、2章では「エホバ神」と言葉を換えています。そして文体も違います。例えば、人間を作るときの方法です。1章では「神に似たもの」を作る創造を絶する絶対者として描いていますが、2章では、人間が粘土から土器を作るように「土の塵で人を形づくり」、人間のように「息を吹き入れ」たり、人間と自由に会話したりする、きわめて「人間的な」神です。
なお新共同訳などでは以下のような順序となっています。
創世記第1章: 植物→動物→人間(男女)
創世記第2章: 人間(男)→植物→動物→人間(女)
次に創世記19章30-38です。
ここでは、父親にブドウ酒を飲ませて酔わせ、1親等である父と娘が交わっています。
こんな話は聖書の内容としてふさわしいのでしょうか?
次に創世記第20章1節から14節です。
ここでは、アブラハムが自分の妻サラを他の男にとられまいとして、妹と偽ります。
この物語が成り立つためには、妻が若く美しいことが前提とならなければならないのに、アブラハムと妻サラがゲラルに滞在したときサラは90歳の老婆だったのです。そもそも、アブラハムが神に召命されて聖書に登場するとき、彼はすでに75歳でありサラ(サライ)は65歳でした(創世記 12:4)。しかも、ゲラルでの事件が始まる直前、神は100歳になったアブラハムと90歳のサラの間に子どもが生まれることを告知するのですが、そのとき、アブラハムもサラもこれを笑うのです。
このように聖書にはおかしな話がたくさんあります。
人生のためになる話もありますが、すべて「無謬である」=「間違いのない物語である」と考えるのは行き過ぎと言わざるを得ません。