ZillionForce@Vocal上田康博の公式ブログ
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「成功」と引き換えに…



御車代を戴いても
一言の御礼も言わないような人間になるくらいなら


僕は
「成功」
なんかしなくていい


「成功」
と引き換えに


人間としての尊厳を失うくらいなら


僕は何も手にしなくていい



人を傷付けて手に入れたものなんて


全て無価値なのだから

全て、総て。

「植物人間になった母」

「植物人間になった母」


僕が3歳児だった頃、
母は末期の乳がんで入院しました。

公立小学校の先生をしていた母が、
身体にとてつもない痛みを覚えて倒れ、
病院に搬送され乳がんが発覚した時には既に全身に転移しており、

もう手術など一切何の施しようもない末期の状態でした。
延命治療以外にないと。

母が完全に入院する前に、
お家の中では二足歩行が出来ずに
母は四つん這いでした。

僕は3歳児でも自分の脚でもう歩けるようになっているのにも拘らず、

母はまるで僕が赤ん坊だった時のように四つん這いで畳を歩いて…

そして完全に入院してからは、
僕は通っていた、
つばき保育園がお休みの毎週日曜日に、
小さな茶色のお財布を持たせてもらい、
一人で城南タクシーに乗って、
一人でお見舞いに通っていました。

入院当初は毎週、
ベッドのそばで母と少しの間だけ会話する事が出来たのですが、

僕が4歳児になる頃には母は植物状態になり、
もう意識が戻る可能性はゼロと言われ、
意識も反応も目を開けることも何もない、

ただ緑色の人工呼吸器を付けて
身体が管でいっぱいになっている
植物人間でした

植物状態になるまでは、
僕とは別の日時にお見舞いに来て下さった方が大勢いらしたようで、
本当に有り難い限りだと感謝しております。

母が勤めていた小学校からは、
教え子の生徒さん達が作ってくれた
千羽鶴を二つも届けていただいて、

「上田先生、
早く元気になってください。」
など生徒さん達の寄せ書きまで添えられていました。
なんて心優しい生徒さん達なんでしょう。。

しかしながら、
いつの間にか植物状態になってからというものの、
殆どどなたにもお見舞いには来て頂けなくなりました。

「植物人間だから行っても来たことさえ分からないから、
もう行っても意味がない。」
「逆に痛々しくて見ていられないから、もう行かない。」
という大人方の御見解や判断は合理的であり、
ごもっともであると存じます。

ただ、
僕にとってはそういったことは関係なかったのです。

「お見舞いに来てくれて有り難う」
なんて母に労ってもらうことが目的でもなく、

植物状態の痛々しい姿を見るのは確かに辛いけれども、

まだ意識のある状態で極限の痛みに耐えながら、
抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちた頭を覆うニット帽を、
お見舞いに来た時だけ被っている姿の方が、

僕には気付かないように振る舞ってくれていても、
子供には苦しい顔を見せないように無理させてしまっている方が、
僕にとっては辛かったのです。

そして母が無理して堪えているのを、
僕は子供ながらに感じ取っていましたが、

それでも残された短い余命の間に、
子供の顔を出来るだけ見ておきたいからそうしてくれている訳で…

母がそう無理してくれていることに気付いていない振りを毎週することが、
まだ幼い僕にとっては悲しかったのです。

だからこそ、
そうでなくとも、
意味がないと言われようとも、

「植物人間になった母」に、
僕は毎週日曜日にタクシーに乗って
一人でお見舞い通い続けました。

何も分からずに?
いいえ、
相も変わらずに。

僕が満5歳になる二ヶ月前まで
植物状態でも生きていてくれて
有り難うよ、お母さん。

僕が生まれてから
四年十ヶ月の短い命
僅かでも忘れないからね。

【不謹慎という名の大罪】〜自粛や中止の舞台裏で〜


【不謹慎という名の大罪】
〜自粛や中止の舞台裏で〜


こんな時だからこそ、
多様な立場から多角的な意見が多出するのは有意義であると存じます。

それでこそ、初めて、
大局的見地に立つ事が出来ますので。

元来、
人間には各々適材適所というものがあります。

こんな時だからこそ、
その人には出来ない事と、
その人にしか出来ない事、
その両側面があって然るべきです。

2011年の東日本大震災の際、
何でもかんでも
「不謹慎だ」
と自粛や中止を強いられた結果、
後に二次的、三次的な被害・被害者が
多数出る結果となりました。


悲しいかな、
ただ報道されていないだけで…
勿論取り返しがつきません。

ほかでもない、
僕もその当事者のひとりです。

大切なのは、
「悲しみを再生産しない事」
です。

自身は何一つしようとさえしていないにも拘らず、
何をしても叩く人は叩きます。
構わない、流して差し上げれば良い。

「認めてくれない人を見返してやろう!」
なんて逐一思わなくて構わないのです。

何故ならば、
認めてくださっている方々の御期待にお応えする事の方が、
断然に優先順位が高いからです。

喜んでくださる方や楽しみにしてくださる方がいらっしゃる限り、
自粛するよりも敢行する勇気と実行力を持たなければなりません。

こんな時だからこそ、です。
こんな時だからこそ。

もちろん、
御客様への安全性が担保されていない状況下を除いて。

もっとも、
一人でも多くの方に笑顔になっていただいたり、
慟哭から感奮への僅かなきっかけの
一助となる事こそが、
エンターテイメントの役割であると僕は考えます。

もしかしたら、
僕達は一般の方々よりも出来ることは限られているのかもしれませんが、

表現者・エンターテイナー・クリエイター
としての使命を果たす事を妨げられてしまいますと、
やがて各々の宿志は消え入り、
此方彼方で悲しみが再生産されてしまうのです。

どうか、立ち止まらない辛抱を。
どうか、貫徹する事で何よりも寄与を。

こんな時だからこそ。

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