製作者 Q&A〈ホーリーイノセント〉 | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

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韓国ミュージカル
自分の予習復習用につき、かなりの偏りあり
(注意: 目標はネタバレ100%)
メモ付き写真アルバムとしても使用中

 

台本/演出 チョン・ユジョン
 
Q. 「ホーリー·イノセント」という作品のタイトルの意味は何か?
 
 「The Holy Innocents」はキリスト教の新約聖書マタイ2章に出てくる「罪のない子供たち」の虐殺事件から出た言葉であり、「罪のない子供たち」あるいは神聖で純潔な人々という意味を含んでいる。大衆的によく知られた映画「ドリーマーズ (The Dreamers)」以前に出た原作小説のタイトルが「The Holy Innocents」でもある。 『ドリーマーズ』の代わりに『ホーリーイノセント』という小説の原題を選んだ理由は、このタイトルが作品の方向性とより合っていると判断したからだ。このタイトルは作品の中で現実という巨大な流れに巻き込まれていく人物たちの無実と純粋さを象徴的に盛り込んでいる。
 作品の中の人物たちは映画という媒介体を通じて自分たちが夢見る世の中を作り出し、その中で本能と感情に忠実に生きていこうとする理想主義的で純粋な熱望を持っている。
 彼らだけのルールで作り出した世界の中で、外部の葛藤や現実の重さとは程遠い、「愛とロマン、そして自由」に満ちた静かで平和な生活を満喫する。
 しかし、現実という外部の激動がこの世界に入りこみ、彼らが享受していた平和に亀裂が生じ始める。彼らが守ろうとした純粋な価値と理想は、生存という壁の前に危険と感じられるようになる。彼らが外の世界に向かうことを決めた瞬間にも、革命に対する強い意志や闘争心を持って向かうよりは、生存するために、あるいは愛する人たちと共にするために外に向かう。そして、まるで急流に巻き込まれるように、革命の現場その真ん中に置かれることになる。登場人物をただ夢の中にいると表現するよりは、このように現実に巻き込まれるようになった過程を含蓄的に盛り込んで、彼らの成長まで暗示できるように〈ホーリーイノセント〉というタイトルを選択した。
 

Q. 舞台上のカーテン活用度が高いが、カーテンで表現しようとした方向性はあるか?

 第一に、人物がいる空間そのものを一つの巨大なスクリーンで表現しようとした。
 まるで映画の中の世界にいるように、夢のように生きようとする3人の姿がスクリーンの中のように見えることを願った。また、劇中の人物が真似する映画の映像クリップを投射するためにスクリーンの役割を果たせる装置が必要だったため、白い系の布を選択した。
 第二に、人物を中心に徐々に縮小していく空間をカーテンで表現したかった。
 人物が外の世界(映画館やルーブル博物館)にいる時は、比較的開放的で自由な空間を表現するためにカーテンを開けて空間を広く使用した。そして、人物たちが孤立を選択して、だんだん自分たちだけのゆりかごの中に入っていくと、舞台の上の空間がだんだん小さくなるように表現しようとした。このような空間転換のためにカーテンの運用を選択した。
 最後に、一部の舞台に透けて見える布を利用し、布越しの人物のシルエットが見えるようにし、これを通じてマシューが双子の空間を、そして観客の方々が3人の内密な空間を覗き見るような感じを与えようとした。
 

 

 

 

Q. 公演が始まり、テオ、イザベル、マシューが客席に入場するが、この演出の意図が知りたい。
 
3人にとって、映画の空間はまさに夢の空間だ。公演が始まってスクリーンが開かれると、マシューは「ヌーベルバーグ」を歌いながら、夢見るようにスクリーンに向かって近づいて舞台に上がる。そして、この舞台の上でテオとイザベルに出会う。このステージは、彼らが出会い、愛し、夢見る空間だ。
 マシューが舞台に上がる瞬間は映画の中の世界に入る瞬間を意味し、同時にテオとイザベルに会って体験する夢のような時間、その世界の中に入る瞬間を意味したりもする。
 それで客席を通じて舞台に上がる動線を通じてマシューが現実を抜け出して夢の中に入る瞬間を観客が一緒に感じられるように表現しようとした。マシューがスクリーンの中の映画に向かって歩いていく時、その瞬間だけは観客の方々も夢のような世の中に入る瞬間を共有して欲しい。
 
 
Q. 「平凡な時間」でイザベルとマシューのキスシーンの時にテオが舞台に登場し、短い暗転後に緑色の照明がつくまで舞台中央で見守るような表情をしているが、この時テオが登場する理由や、伝える部分が何なのか知りたい。
 
 テオは前の場面でジャックに会い、今まで無視しようとしてきた真実に向き合う。
 自分の手に負えないほど大きくなる事態、恐怖のために行動できない自分の姿、父親を非難した「卑怯な偽善者」という言葉が自分に向かって帰ってきたことなど…。これにより、テオは非常に萎縮した自分の姿を発見する。その瞬間、マシューとイザベルが愛を分かち合うのをテオが直接目撃することを願っていた。いつにも増して自分がみすぼらしく感じられる瞬間、自分たちの人生に深く入り込んだマシューと自分から離れていきそうなイザベルを直接的に見た時の感情。それはただ一つの単語では表現しにくい複合的な感情だと思う。不安、寂しさ、嫉妬、怒り、もしかすると興奮…。こうした感情を一つに規定するよりは、テオの感情線に合わせて有機的に表現されることを願っていた。それでテオ役の俳優たちと、その日その日に感じられる感情を表現しようと相談し、その複合的な感情をテオの表情を通じて伝えようとした。

 

 

 

 

Q.「幼児 (어린이)保護区域」の名称はどこから出たのか知りたい。
 
 この呼称は「ラスプーチン」や「ホームムービー」のように「イザベルが自分の好きなように名前を付ける遊び」からきている。平凡なことを嫌い、自分たちだけの遊びを作るのが好きなイザベルは、何かを指す時、自分だけの言語を付けたりする。
 イザベルが3人を守るために作った空間は原作では"Le quartier des enfants"と表現されている。これは「幼児 (어린이)たちの区域」または「子供(아이)たちの区域」と訳される。
 原作で「enfants」という単語を選択した理由について、子供または幼児の段階で成人に成長することを拒否したイザベルの選択から始まったものだと解釈した。
 テオとイザベルは一緒にシャワーを浴び、一緒に同じベッドで寝たり、幼児的な性的遊戯を楽しむなど、まるで幼児の段階にとどまっているような姿を見せる。このように、現実の中に進むことを無視して過去に留まることを願うイザベルの欲望を「子供」より幼いニュアンスの「幼児」と表現しようとした。そして3人、中でもテオを守ろうとするイザベルの意図を込めて「保護区域」と表現した。「幼児保護区域」という言葉が登場した時、マシュー(そして観客の方々)が自ら幼児と称して過去に留まりたがるイザベルの意図に小さな違和感を感じて欲しかった。
(訳注:通常どちらも「子供」と訳される어린이と아이の区別をつけるため、「幼児」を採用したが正しいかどうかは分からない)
 
 
Q. 映画と比べて各3人の人物の成長がさらに強化されていると感じたが、マシューという人物がイザベルとテオの2人に魅力を感じ、惹かれるのに、なぜ途中で2人を分離させようとするのか?
二人を愛しているなら、あえてその2人を離そうとしなくてもよかったのではないかと思い、その意味が知りたい。
 
 マシューが究極的に愛する対象は、テオとイザベルの姿が重なりあいまるで一人のように浮かんでくるその存在だ。マシューは永遠にその幸せな夢の中に留まることを願い、「鏡の中の二人の魂」というナンバーを歌う。その空間でまるで終わらないかのように2人と一緒にいることがマシューの望みだ。
 しかし、現実的なマシューはその願いが不可能なだけでなく、2人のためにならないという事実を心の片隅で知っている。いつかは2人の両親が戻ってくるだろうし、いつかは自分がアメリカに戻らなければならないだろうし、テオとイザベルはこのままでは独立した人格体に成長できないということを知っている。自分の幸せを維持するために、すべてに背を向けることと、双子を本当に思うこと。マシューはその間で葛藤し、結局自ら幸せな夢から覚めようと決心する。そんな決心から、双子に現実を直視し、本人たちの姿を直視しろと言う。たとえ双子が傷ついても、そして自分が傷ついても、この過程が必ず必要だということをマシューは知っているので、その痛みを甘受するのだ。
 

 

 

 

Q.「ホーリー·イノセント」を通じて観客で一番見せたかったメッセージは何か?
 
 作品の中の人物は完璧ではない。未熟で分別がなく、時には愚かだ。
 普通には理解しにくい行動をとる。立派な革命闘士でもなく、口先だけの臆病者だ。しかし、彼らは愛し合い、衝突し、葛藤し、自らを、そしてお互いを少しずつ成長させる。彼らの成長は非常に微弱で取るに足らないかもしれないが、彼らが踏み出した足跡が一つづつ集まり世の中を少しずつ変えていく。彼らの意図が雄大でなくても、思想と理念のための神聖な犠牲でなくても、ただ愛する人を守るための小さな身悶えだったとしても、このような一人一人の成長が集まって世の中は少しずつ前に進んでいくだろう。この劇で革命の価値や偉大さよりは、個々人の成長にフォーカスしようとした理由だ。