[記事]〈もしかしてハッピーエンド〉クレア、喜んで傷を選択する心 | 韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

韓国ミュージカルを 訳しまくるブログ

韓国ミュージカル
全ては自分の予習復習のため
(注意: 目標はネタバレ100%)
近頃はメモ付き写真アルバムとしても使用中。

The Musical コラム



(一つの段落が長いので、任意で改行しています。)


ミュージカル〈もしかしてハッピーエンド〉は、過去と現在が出会い、未来に進む作品だ。過去にはオリバーが住んでいる。彼はLPと糸電話、紙の雑誌と「瓶拾い」という苦労の末に得られる幸せを追求する。ずいぶん前に別れた主人の好みにそっと従って、彼と再会する日のためだけに生きる存在。


現在にはクレアが住んでいる。好奇心があって何でも今すぐ試すのを楽しむ。退屈な人生の代わりに行動する、生気あふれる存在だ。


〈もしかしてハッピーエンド〉は、過去と現在だけだったオリバーとクレアが向かい合って始まる。彼らは自分の中の世界から出て未来を想像し「一緒」を選択する結末に至る。ロボットを主人公にしているが、暖かくて感動的なごく普通のメロドラマである。


だがクレアの視線から見れば〈もしかしてハッピーエンド〉は「自己防御」の話だ。彼女は人生の有限性を全身で体得するために現在を生きる。修理が難しくなる古い部品、数少ないヘルパーボットの友達、消える記憶が彼女を悩ませる。


クレアは悲しむのではなく現実を見つめる。 「どうせ同じ結末」と合理化し、「悲しむ理由はない」と感情から目を逸らし、「きっと大丈夫」という呪文をかける。自ら制御できないのが未来なら、現在の可能性に集中しようという意図だ。だから関係では静けさを崩さない程度の距離が、日常ではいつでも安全に逃げられる空間が重要になる。「もともとこんなものだ」とか「永遠なものはない」のようにクレアの文章が断定的なことも、別れの傷から自分を保護するためだ。


「現存」に集中するということは、今後の未来の深刻性を否定するという意味でもある。クレアの姿が一瞬誇張されたり不自然に見えるならば、それは彼女がロボットだからではなく、自分の陰を隠そうとしているからだ。「平穏」を装った寂しさ、傷として残ったときめき、自分と同じではない心に対する憎しみ、始まりの恐怖、終わりの悲しみは、1人の時にのみ現れる。



クレアは表現しないだけで、自分に与えられた現実と感情の両方を認知する点で、誰よりも早く繊細に愛のしるしに気づく。ときめきと楽しさ、快適さと安心感、共通点を発見し、秘密を共有する喜びを。愛の様々な顔を知りながら恋に落ちないことを約束するクレアの姿はそれで悲しい。苦い笑顔には、愛への深い渇望と愛による傷が共存する。


だからクレアは必然的にホタルを愛するようになる。早く生を終わらせても、自ら光を放つ命。クレアはホタルを通じて「ヘルパーボット」を超えて、私として存在したい欲望と、すぐに消える未来の恐怖に向き合う。「現存」することの美しい刹那の喜びで恐怖をしばらく忘れて、短くても鮮明に記憶される誰かを期待しながら。



漠然とした期待を確信に変えてくれたのは人間ジェームズだ。クレアはジェームズを「友達」と呼ぶオリバーに、最後まで彼は「主人」であり、オリバーを「捨てた」と言う。


しかし、ジェームズはオリバーを末永く忘れず彼のためにLPレコードを残すことで「友達」であることを証明する。クレアはようやく信じる。自分を守ってくれたが、絶え間なく疑っていた古い自己防衛が間違っているということを、消えない気持ちが存在するということを。人々から永遠の心がないことを学んだが、消さない心の存在も人から学んだわけだ。


クレアは傷つかないために目を背けてきた心に初めて向き合って、喜んで愛で傷つくことを決心する。深いマイナスから始まった勇気がクレアを輝かせる。もちろん、「記憶削除」という最後の選択がオリバーとクレアの別れを暗示しはする。しかし、記憶を消したかどうかは関係ない。重要なのは、愛が存在するという信念そのものだからだ。これからクレアはおそらく一度も傷つかなかった人のように誰かを愛するようになるだろう。



愛は生き方を一番繊細に描き出す。ジェームズとオリバーはお互いを末永く忘れないことで、クレアとオリバーは脆弱なお互いの世話をすることで愛を定義する。愛はより広い世界を開いて、他の存在を理解し、自らを成長させる方向に進む。効率と個人主義の時代に〈もしかしてハッピーエンド〉は一番クラシックな話をする。あなたが長い間忘れていたのがこれではなかったのかと問いかける。結局は愛が勝つ。