〈モーツァルト〉に〈ルドウィク:ベートーベン〉の配信と忙しい3日間が終わりました。
日曜マチソワ、月曜マチネの3回で、配信全キャストの〈モーツァルト!〉を楽しむことができました。
しかし、以前は劇場を移動してマチソワとかやっていたのに、集中力の続かないこと!衰えたのは体力だけでなく精神力も?
一番最後に観た〈ルドウィク〉は、個人的な感想に過ぎませんが、正直〈モーツァルト〉より面白かった。知らず知らずに画面に引きつけられて目を離せない。
大掛かりなセットは無いし、華やかなアンサンブルもいない。舞台の上、わずか5人の人間が紡ぎ出す感情の波に飲み込まれて、一気に最後まで持っていかれます。
言葉の壁もあり、細部まで理解しきれない現実もありますが。時間をかけて予習復習する価値のある作品だと思います!
さて、〈モーツァルト〉ですが、3回観るうち私の中で大きくなっていった一つの思いがあって、それは、見れば見るほどレオポルトが憎らしくて気分が悪いってこと。
〈モーツァルト〉という作品に好印象を持てないとしたらそんな要素も関係しているのかもしれません。
以下、とても感情的な思い込み悪口が並んでいます。あまりお勧めできません。
ネガティブなのを避けたい場合はここまでにしてくださいませよ。
さて、始まり始まり。
息子を愛してはいるけど方法が間違っていたって?
いや、間違いすぎていないか?そもそも愛してなくないか?
愛してるのは自分自身だってことに気付いていないだけで。


レオポルトには3つの役割があったと思う。音楽教師、マネージャー、そして父親。
教師としては結果を出したのか?どうだろう。バイオリンなんかは自分で覚えたそうだから、そこまで巧みに教えなくても能力は伸びたような気もする。
自分が天才を作った、だからもう1人作れる、なんて言ってしまうのが見事な考え違い。さすがに大司教は取り合わなかったが。
ヴォルフガングが愚かしく高慢に育ったのは、天才として元々生まれ持った偏りだったかもしれない。
しかし、人々の称賛を浴び、女帝マリア・テレジアの君臨するシェーンブルン宮殿でマリー・アントワネットにプロポーズできるような幼少時代を送れば、自分が特別な人間であると思ってしまうのは容易に想像できる。
ヴォルフガングの幼少時に、レオポルトは父親として息子の人間性の発達に心を砕いただろうか。
もっと謙遜が必要。そう教え始めたのはいつ頃だろう。きっとそうした面が現れ始めてからに違いない。そもそも押さえつけ否定するだけでは教えられないのではないか。「励まし」は教育に無くてはならないはず。
一方、幼少時代の興行?はマネージャーとしての手腕が発揮されたと見て良いのだろうか。
しかし、このマネージャーは、子供が器用に演奏するから金になるのであって育ってしまえばただの人、だと思っている。
本当に息子の才能がそれだけのものとしか思っていなかったのだろうか。(もっとも、振り返ってみたら天才作曲家だったわけで、幼い自分の子供がどこまで大成するかなんてわかるはずもないか。)
皇帝の前で演奏する息子を嬉しそうに見ているのに、なぜ認めてやらないのか。この父親に「応援」という文字は無いのか。(追記:4番目の役割に音楽家としての存在があったとすると「嫉妬」という要素が入ってくるのは当然だと気づくべきだっだった。)
鼻面を引き回すのではなく、親として「応援する」「後ろから支える」という気持ちがあったら、ヴォルフガングも少し違っていたのではないだろうか。
男爵夫人は「厳格すぎる父」と言っていたが、レオポルトは自分を超えてしまった息子を喜べないだけでは?
「お前を育てた私に感謝を忘れるな」「曲が複雑すぎる」それに加えて「母親を死なせた」
卑怯だな。音楽家を育てたかもしれないが、人を育てるのは失敗したくせに。
自分の音楽はこれなんだとでも言うかのように、ヴォルフガングはアマデの小箱をそっと差し出す。しかし父は受け取るのを拒否する。泣くかのように両手で顔を覆うアマデ。
自分の思い通りではない音楽を認めないレオポルトの狭量さ。
ああ、そうか。レオポルトはペンギンなんだ。唐突にそんな考えが浮かんだ。
そしてヴォルフガングは空を飛べる翼を持った鳥。
ペンギンは意地悪しようとしてるわけじゃなくて、彼の暮らす世界、彼の視点からすると当然のことを教えようとしているのだ。空を飛ぶなんて観念さえないのだし。
かと言って飛べる鳥に飛ぶなというのは無理な話。ペンギンのように暮らせと言われても苦しいだけ。
「どうして愛してくれないの?」ペンギンに空飛ぶ鳥は理解できないから。
そんなレオポルトの限界を考えれば少ーしだけ憎らしさが薄れる気がしなくもないが…やっぱり無理。
レオポルトの死後、混乱したヴォルフガングが過去に言われた言葉を繰り返す場面がある。
「天才、完璧だ」「奇跡は終わった」「お前は家族を捨てた」「愛してる」「言うことを聞け」「お前は私が作った」「神童だ」
そこに見えるのは称賛と支配、思い通りにならないことへの怒り。称賛さえも、とても自己中心的だ。
レオポルトが一番卑怯だと思うのは「私は自分の人生を諦めた」という言葉。諦めたのではなくて、ヴォルフガングの人生をそっくり利用しようとしているだけ。
とにかく、自分の思い通りにならない息子に「家族を捨てた」と言うのはどうしても許せん。自分の人生を生きることが家族を捨てることと同じなら、大部分の人間は家族を捨てたことになる。
親にとっての利用価値を通じてしか見てもらえず、1人の人間として見てもらえない悲しみ。そこで悟るのは自分自身として愛されていない事実。
さらに悲しいのは、子供の側は親を愛していること。
自分の人生を生きつつも家族に思いやりを持って助け合うことはできるはず。
稼げない自分の代わりにヴォルフガングに稼がせようとしてるなら、それこそ感謝を持って接したまえ。「お前を育てた私に感謝を忘れるな」とは思い違いも甚だしい。
最終的にはその時代の制限と常識があるだろうから、まるまる現代の考え方を投影することはできないだろうが。
これを書き終わってからジュンスの解釈を読んだが、こう言っている。
「世間が皮肉なことに(モーツァルトの人生が)父親の言葉通り悲劇になりましたよね。父は最高の作曲家を育てました。しかし天才音楽家ではない息子として、一度だけでもモーツァルトを見てくれたら、ここまでにはならなかったんじゃないかと思うこともあります」
最後、アマデとレオポルトが抱き合うのはどう解釈したらいいのか迷っていたが、ジュンスの言葉で納得できた。そうだとすれば、素敵なシーンだと思う。幻なので余計に哀しくもあるが。
「死ぬ直前に見るアマデは天才ではなく『幼いモーツァルト』だと思います。最初の場面の『アマデ』はモーツァルトの子供時代でもありますから。
それで父は『"天才性"アマデ』ではなく『幼いモーツァルト』ありのままの私を抱いてくれると感じるます。」
さて、ナンネールを見ると本当に気の毒。時代と言ってしまえばそうかもしれないが、ヴォルフガングに執着する父の元で常に後回しにされて。
そして、初めから才能を発揮する機会が無かったなら、まだましだったような気もする。
ナンネールもヴォルフガング同様、華々しい活躍を経験してしまったから。希望を持ってしまったから。
33歳の時に5人の子持ちの15歳年上の地方貴族と結婚した(させられた?)って事実もかなり気の毒なのである。
せめて穏やかな幸せを感じる瞬間もあったと信じたい。
(もえじろぱ様、為になる記事ありがとうございました。
)

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これまで訳してきた内容が違うところもあったので、手直ししたいところですが、来週の月曜日も注目作の配信が決まったので、そちらの予習もしなければならない。
あの人を無料配信で見られるとは

改めてアップします。