生野義挙は1864年の旧暦10月12日に起きた歴史的出来事です。
昨日私どもは、当該地へ慰霊清掃に行つて参りました。一日前であれば、台風14号によつて中止の憂き目に遭ふところでしたが、間一髪で参拝、奉仕が叶つたことは喜ばしう存じます。
文久3年(1864)と言ひますと、大政奉還の4年前ですゆへ、正真正銘の幕末でございます。
維新を切望しつつ斃れた志士の心中を思ふならば、あと4年経てば明治維新も成就し、待ちに待つた天皇親政の世が成就するのです。その前夜とも言へるこの文久3年に、二つの蹶起事件が起きました。
ひとつは旧暦8月、今の奈良県で起きた天誅組の大和義挙でございます。孝明天皇の大和行幸(後日中止)の先鋒を務めやうと土佐浪士・吉村寅太郎らが公卿・中山忠光を戴いて挙兵、幕府天領の大和国五條代官所を襲撃します。ところが、孝明天皇を含む幕府への攘夷委任派が、攘夷親征を主張する三条実美など尊攘派公卿や長州藩を朝廷から排除する変事があり、天誅組は「逆賊」とされます。その後、吉村寅太郎は十津川郷に逃れて叛乱を拡大しますが、紆余曲折の末、結局討伐されてしまひます。(このあたり大層複雑ですゆへ、文献を紐解いて下さい)
もう一つの蹶起が、今の兵庫県は但馬で起きた生野義挙でございます。生野義挙は、曩にのべた大和義挙と呼応して計画されたもので、両者の経過等はとてもよく似通つてをります。
この悲劇の決起は、4年前、拙ブログで詳しくご説明いたしましたゆへ、これをご覧頂きたく存じます。
中心人物は河上弥市(南八郎)で、公卿の澤宣嘉を主将に戴いて挙兵。同じく、これも公卿の心変はり(逃亡)が仇となり潰えてしまふのですが、より悲しいのは自らが集めた百姓(民兵)の手にかかつて義士たちは追ひつめられ、或る者は射殺され、また自刃を遂げてしまひます。
百姓らから借りた窯やお櫃、箸や椀類は、すべて志士の手によつて清潔に洗はれ干されてをりました。
双方の事件を繋ぐ人物である平野国臣は戦略家であり、事がならぬと分かると中止し、また次の機会を探さむとする人物でございますが、南八郎は「武士」ゆへそれを潔しとせず、次のやうな歌を遺してをります。
議論より 実を行へ 怠け武士
国の大事を 余所に見る馬鹿
現代にこれらの行動を当てはめるのは適当ではございませんが、維新の志士たる者は、これほどの凛烈なる覚悟を持たねばならぬのでせう。
いつか立ち上がる?
それはいつ?
それは「今」を措いて他に無い。
胸襟を正して志士を深く悼み、衷心より冥福を祈るものでございます。合掌