母の実家は、元々、滋賀の中山道沿ひに在る本陣(殿様専用の宿)だつたことは以前にも申し上げました。因みにその本家は近くに有り、その家は今でも代々医師が継ぎ、所謂地元の名士を輩出してをるさうでございます。
市の文化財に指定されてをりますゆへ、その家を継いだ長男(私の叔父→その息子つまり従弟)は柱や床が傷んだからと言つて、黙つて勝手に修理をすることができません。修理するには、市役所へ申請を出して、面倒な手続きの末、許可を貰ふ必要があるのです。
さて、旧本陣は大きな屋敷でしたゆへ、私が幼少の頃は母の帰省にお供させられたものでございます。昭和37年に小学校へ上がりますと、夏休みになれば数週間、宿題を持つて長期的に宿泊しました。その頃には祖父、祖母、母の兄弟(私の叔父と叔母・上は会社員から下は高校生)が数人と、それはそれは大人数が住まひしてをりました。遊び相手には事欠かなかつたものです。
天井が高くて広い台所は土間になつてをり、所謂「おくどさん」と言ふかまどに釜が3つほど鎮座致しをりました。
おくどさん(イメージ写真)
その脇には風呂釜もあり、夕方になると隣の魚屋(此処も店子のひとつ)から使用済みの木を貰つてきて風呂を沸かすのを手伝ひました。無論、祖父が一番風呂に入ります。
台所の中央に小川のせせらぎのやうな幅30センチくらひの下水が通つてをり、暗い中に泥鰌(どぜう)が泳ぎタニシも棲んでをりました。
夕飯が始まるのは午後6時頃です。祖父はその1時間前くらひから、独りTVで相撲など眺めながら晩酌を始めます。膳は、料亭に出るやうな50センチ四方くらひの「殿様膳」で、女子供とは別に、刺身や焼き魚などが並んでをりました。たまに私を膝に坐らせると、好物の皮付き南京豆を口に入れてくれました。
6時になりますと、NHKニュースの放映テーマ曲に合はせたやうに、祖父以外の家族が大きな卓袱台(ちゃぶだい)で夕食を始めます。祖父の膳は卓袱台から2メートルほど離れてゐます。10人くらひの孫や子が賑やかに楽しげに食事をするのを後目に、ひとりで杯を傾けてをります。すこぶるダンディでございました。
当時から都会に住む孫の私から見ると不自然で、祖父が寂しさうに見えたものですが、祖母や叔父叔母らから見れば、その方が自然なのださうでございます。それが昭和30年代の日本の原風景やも知れませんね。
以後、叔父や叔母たちは、それぞれに就職や結婚で家を離れてゆき、兄弟喧嘩を観戦するスリルも消へてしまひます。10年後には長男で家長を継いだ叔父夫婦とその子ら(従兄弟)の家となりましたが、私は相変はらず夏休みには世話になりました。丁度その頃には、この母の実家が200周年を表彰される行事があつたと記憶致しをります。
現在マンション住まひの私の家には、畳の部屋が一間しかなく、そこは寝室になつてをりますが、もし許されるのであれば、一畳でも良いゆへ畳を敷いて「殿様膳」で晩酌をしてみたい…。秋刀魚(さんま)の美味い季節になると、毎年さういふ妄想をかきたてるそれがしでございます。 〈完〉