「終戦」の8月に想ひ出す、吾が母のこと | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 吾が母は昭和5年生まれでございます。

 すなはち15歳といふ、多感な少女の頃に終戦のご詔勅を聴いたことになります。

 私が子どもの頃に、母から折に触れ戦前戦後の社会風景について耳にすることが出来たことは、今思へばとても幸運なことだと存じます。

 

 例へば、母の家は元本陣ですゆへ建て方が旅館形式となつてをり、そこで「隣組」組織の寄り合ひが催されたとか、それに臨席してゐた将校さんが格好良くて憧れたとか。

 また、貸家(母の家は土地家屋を多く持ち、貸してゐた)に住んでゐた小父さんが、汽車に乗つてゐたところへ米軍B29の爆撃があり、弾丸が窓越しに胸を貫通して亡くなつたこと。

 米軍機が飛んでくると、両手親指で耳を塞ぎ、残りの指で目を抑ゑるのだと言つて、実際に演じてくれたこともございます。私どもが聴いたこともない軍歌や戦時歌謡を母が歌つてくれることもございました。その中には、一般の軍歌を子ども用に「替へ歌」にしたものも多うございます。

 

 母は長女で、下には弟が3名、妹が2名居ります。食べ盛りの兄弟は配給米だけでは足りず、彼らを養ふため、幼い弟妹を背中におんぶして、蔵に有つた着物類を持つて近所の農家を訪ね、米や農作物と交換してもらつたこともございます。農家は食糧があるため態度がとても高飛車で、父親(私の祖父)のやうに町役場や会社勤務の人々に対して、たいそう横柄な態度であつたさうです。

 占領政策により土地家屋を多く持つ家は、それを取り上げられたため、ドブに落ちた犬は叩かれるの譬へどほり、店子の中にはこれまで世話を受けた恩を忘れ、居丈高になる者も居たとか。洋の東西を問はづ、姑息で愚かな者はその時代の強い者に尻尾を振ることに喜びを感づるやうですね。

 

 さて、時代は終戦から60、70年ほど経過します。

 私の長男が小学校に上がり、4年生の頃でしたか授業参観へ妻と共に母が出席した日のことです。参観したのは国語の時間で、折しも教科書は戦争中の出来事がテーマでした。

 ひと通りの授業が進んだ後、担任女性教諭が私の母をみつけて「S君(長男)のおばあちやんは、何か当時の思ひ出はございますか?」と、軽い感じで尋ねたのです。

 すると母は予期せぬ事態に狼狽へながらも、「さうですね~」と答へ、くだんの機銃掃射や、食糧探しの話を始めたのでございます。教室はシーンと静まりかへり、いつもは落ち着かない児童らも、見知らぬ老婆の話に姿勢を正し始めました。多くの保護者も身を乗り出して聞き入つてをります。授業時間はオーバーしてしまひ、気づいた担任教諭はようやく「S君のおばあちやん、有り難うございました」と最敬礼。教室は万来の拍手に包まれたのでございます。

 

 それから長男が卒業するまでは、見知らぬ父兄や教師が、街中でもすれ違いざま母に挨拶することもあり、なかなか痛快でございました。

 

 

 母は、認知症になつた今でも終戦記念日頃のテレビ番組を見ると、よく昔の想ひ出を切れ切れに話してくれます。興味深いのは、アニメ「火垂るの墓」を見ると、私どもは余りの悲惨さに落涙するのですが、母は泣くよりも「さうや、こんなんやつたわー」と感想を漏らすのです。映画「禁じられた遊び」を見ても、同じやうな反応を示します。

 

 あの時代を生きてきた母は、戦時に対する距離感と臨場感が、我々若い者(と言つても還暦以上)とは決定的に異なるのだと、私どもは改めて知らされるのでございます。

 

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