つひ先日の話です。
Yさんは74歳。もう40年のキャリアを積んだベテラン中のベテランドライバーさんです。
常に安全運転を心がけるYさんは、いかにも好々爺(こうこうや)然として笑顔を絶やさない人です。笑ふと能面の「翁」のやうな顔貌になります。
仕事が終はつて事務所へ帰つて来られると、深夜の宿直をしてゐる私に「ほい、トリトンはん!」と言ひつつ、必ず眠気覚ましのチューインガムを下さる優しい方でもあります。
その夜も定時の午後10時に私が愛車で出社しますと、そのYさんが暗い中で車の中に坐り、その日の集計をしてをられました。
「お疲れさんです」と私が声をかけても、Yさんは浮かぬ顔です。
「トリトンはん、えらいことしてしもたんや」
「マスクに血が付いてまつせ。何か有つたんでつか」
「アクセルとブレーキ間違へてしもたんや。こんなん初めてや」
暗い中で目を凝らして観察しますと、タクシーの前方は少しだけ傷が付いてをります。後ろへ回つて吃驚。ガラスは無く、すでにビニール袋で覆つてあるものの、壁のやうにぺしやんこでした。
事務所に入つて留守番さんに話を聞きますと、事故が起きたのは夕方5時頃。ドーンといふ大音響で建物が揺れたさうです。近所の人らも何事ならむと家から飛び出してきます。
外へ出ると、なんと我が社のタクシーが駐車場のすぐ後ろの川…と言ふよりも幅4メートルほどのドブに転落してをりました。図に書くとこのやうな感じです。
Yさんは、バックで駐車スペースに入れた後、すこし斜めになつてゐるので再度前へ出て、再びギアをRにして入れ直した際、ブレーキを踏むつもりが強くアクセルを踏んでしまつたのです。
すると車は縁石を乗り越へて後ろへ落下すると思ひきや、そのまま勢ひよくジャンプ。その結果、溝に橋を架ける形に着地したのでございます。後方には大量のガラスが飛び散つてをりました。
近所の人の通報で、交番のお巡りさんが飛んできます。
事務所からの連絡で2トントラックのレッカー車が来たものの、とても引き揚げられないと、更に大きなレッカー車が参ります。その頃には野次馬も増え、夕暮れの下町は今時珍しく三密状態であつたさうな。
近年高齢者ドライバーの運転でブレーキとアクセルを踏み間違へ通行人が死傷する事例が頻発致しをります。先日刑事裁判で「車に異常があつた」と主張したことから世情を騒がせた東池袋自動車暴走死傷事故は、加害者が日本学術会議の指導的人物だつたこともあり社会問題にまで発展しました。わが兵庫県では神戸市バスの高齢運転手の例も有名です。
75歳で今もドライバーを続けてをられることも、経済的事情がさうさせるのです。その背景はYさんの奥様が病弱で、入退院を繰り返してをられ、加へてその心痛たるや如何ほどのものが有らうかと思ふと、私も胸が痛みます。
事故を起こしても不幸中の幸ひと言ふべきは、Yさんに大きな怪我が無かつたこと。
さらに、一般道ではなく自分の勤務先の駐車場で、人身が関はつてゐなかつたことでせう。
でも、Yさんは「まさか自分がアクセルとブレーキを間違へるなんて」といふ精神的ショックから未だに立ち直れず、会社の処分待ちで現在休暇を取つてをられます。
願わくは、今後運転手以外の道で… と思ふのは他人事ゆへであり、どうか気を落とさずにと願ふしか、今は申せないのが実情でございます。