一家で「ファミリーストーカー」に狙はれた話〈その1〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 

 私は3年上(学年は2年)の兄と、二人兄弟として生まれました。

 生まれた時代は昭和30年前後、いまだ戦後10年しか経過してをりません。

 をつと!今の若い読者の方々は「戦後」といふ呼び方に慣れてをられないでせうね。第二次世界大戦(日本の呼称は大東亜戦争)が日本の敗北に終はつたのが昭和20年ですから、私の生まれた昭和31年は「戦後11年」といふ呼び方をするのが、当時は一般的でした。

 

 大都会、兵庫県で言へば神戸などは、焼け野原の状態からまだ11年しか経過してゐないわけで、空襲の爪痕はところどころに残つてをりました。

 それでも日本はアメリカの庇護のもと、奇跡的な経済復興を遂げてゆきましたゆへ、私が生まれた尼崎市などは工場や鉄工所などが、雨後の筍のやうに建ち並んでゆくのでした。人々はまだまだ安月給でしたが、今日よりも明日、今年よりも来年は確実に給料が増えてゆくのが実感できたわけで、或る意味うらやましい時代です。

 実際、経済的には「もはや戦後ではない」と高言する大臣が現はれ、碌な文化も生まないくせに物だけが増えて「昭和元禄」などといふ自嘲的な呼び方が流行しました。

 

 子どもの数は、夫婦の間に2、3人といふのが一般的でした。戦争や病気で死ぬ心配が減り、衣食足りるやうになると、子どもを産む数は昔よりも減つてきます。その代はり、少し恵まれた家では子どもを大学へ進学させるべく、教育に熱心になつてゆきます。

 我が家は、昭和25年頃から父が質商を営んでをりましたゆへ、ご近所と比べれば裕福な方でした。生まれた長男(私の兄)は幼い頃から眉目秀麗で、頭がよく運動も得意でしたゆへ、母は「この子はいい大学へ入れて出世させるんや」と考へても不思議ではない… といふより、当然の流れでございました。

 母は滋賀県彦根市の旧家の出(長女)で、親類は医者、政治家が多く、またその母(私の祖母)が教職員をしてゐたので、たいそう厳しく育てられた女性です。加へて、戦時中は母親の手足となつて5人の弟妹の面倒を見、終戦後は農家を巡つて米や野菜を求める日々を過ごした苦労人でもございます。

 

 そのやうな大家族の家庭から新興地方都市・尼崎へ嫁に来た母は、父と猫一匹しか居ない家がとても寂しかつたさうです。それゆへ、産まれた長男が可愛ゆくて仕方がなく、この子の将来のためなら全力を尽くして高等教育を受けさせようと決意します。ゆく末は一流企業か政界で出世して… と母が野心を抱いたとしても誰がそれを責められませう。

 

 兄の3年後に生まれた弟の私が、凡庸でマイペース、勉強嫌いで運動音痴と判ると、母の闘魂は否応なく兄の教育に注がれてゆくのでございました。

               〈続く〉

 

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