早朝5時から8時までの運送屋でのアルバイトが終はりますと、私は尼崎市に在る自営の印刷工房へ出社しなければなりません。むろん、家族の者も仕事や買ひ物に出かけるためには、たつた一つの玄関を通るわけでございます。
その日からマンション8階にある我が家の玄関ドア前には一日中、大型の老犬(ちなみに雌でした)がじつと坐つてをります。
家族の者が出かけるたびごとに、彼女が力無く尻尾を振つて私どもを見送り、或ひは出迎へしてくれるのは有難いのですが、これが2、3日も続きますと、こちらも徐々にせつない気分になつて参りました。と言ふのは、彼女はミルクの一滴、パン一切れも口にすること無く、ただ只管(ひたすら)8階から下界の景色(写真下)を終日見つめてゐるだけなのです。
私ども夫婦は思ひあぐねて、彼女を一階へ降ろさうと試みました。妻が前足を持ち上げ、私が腰を持つて立たさむと致すのですが、その重さもさることながら、彼女も必死の抵抗を示し断乎として立ち上がるまいと踏ん張るのでございます。加へてその悲しげな表情を見ますると、私どももそれ以上のことは致しかねます。
このままでは餓死? いやその前に水分不足で干からびるのではあるまいか? されど、保健所を呼ぶのは犬道に反するので何としても避けたい。首輪が付いてゐるから飼ひ主が居るはずだ。でもどうやつて探すのか? 町内に貼り紙を出さうか。マンションの管理組合には連絡するべきか…
ここでふと思ひ出したのが、私の小学生時代の友人で、捨てられた犬猫を保護するボランティア運動に携はり、自らも自宅に数十匹のみなしごを抱へをるS女流画家の存在でした。
彼女を預かつて四日目、藁をも掴む思ひで神戸のS女史に電話を致しますると、私の家の住所を尋ねるだけでしたが、それから何と一時間も経たぬうちに二人の女性が玄関のチャイムを鳴らします。背中に Animal Rescue の文字が入つたジャンパー。
その二人のボランティアが訪れた瞬間、疲労を極めてゐた筈の彼女の目が輝くのがわかりました。
そのうちの一人の女性が、彼女の首輪に紐をつけますと、まるで別犬のやうにヒョイと立ち上がり、嬉々として階段を素直に降りてゆくではありませんか。私どもが試した時とは大違ひです。もちろん彼女とボランティア二人は初対面でございます。
もう一人の女性に尋ねると、何でも、犬といふのは雷鳴を非常に恐れるらしく、1階エントランスから8階まで階段を昇るのは、轟音でパニックに陥つた犬が起こす行動の一典型だと言ふのです。更に、犬といふ動物は高所恐怖症で、8階へ登り詰めたものの下界を眺めて足が竦んだのでせうとの解説でございました。
和気藹々として去る三つの後ろ姿に、私ども夫婦はしばし拍子抜けの態でございました。でも、一階に辿り着くなり彼女(犬)がシャーッと大量の小水を放出したのには、この4日間の彼女の心労を察するに余りあるものが有り、私どももやつと安堵したのでございました。
その翌日、伊丹市では大手ゼネコンS組の事務員女性から丁重なお礼の電話が入りました。そのS社は我が家から1㎞南にございます。5日前の嵐の夜から老犬ミミちゃんが姿を消して、社員一同哀しみに暮れていたさうでした。
それにしても、神戸からの1本の電話から行動を開始し、たつた1日で飼主まで探し出してしまふネットワークには脱帽です。
ミミちゃんは、深夜の豪雨と雷鳴の中、北へ1㎞も離れた我がマンションに走り込み、更にパニックを起こして8階まで昇つて我が家の玄関を訪れたものの、降りられなくなつたといふ真相が判明致しました。
送られてきた豪華な菓子折りを前にして、私どもはペットといふ命を預かる行為が如何に責任を伴ふものかを実感致すのでした。因みに、先般ザリガニ事件はこの5年程後のことでございます。
〈完〉