初めてのアルバイト〈1〉 | 還暦を過ぎたトリトンのブログ

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団塊世代よりも年下で、
でも新人類より年上で…
昭和30年代生まれの価値観にこだはります

 家庭で親から貰ふ「お小遣ひ」とは異なり、「外貨」を稼ぐ「アルバイト」は、未だ世間を知らぬ子女が初めて実社会に触れる通過儀礼と言へるでせう。

 私の場合、この初のアルバイトは高校時代でした。

 

 仕事場は神戸市灘区、阪神電鉄「新在家」駅付近に在つたN社。業務内容は、百貨店や商店街などのディスプレイを制作・設置する小規模の会社でした。学生アルバイトは主に設置の補助をします。

 大手百貨店の神戸大丸や神戸そごうが閉店するのが午後8時。前もつて従業員出入口に待機した私どもは、閉店後の店内に材木や発砲スチロール製の看板などを持ち込みます。

 例へば、二月初頭であればバレンタインセールの飾り付け。夏であればお中元など、買ひ物の雰囲気を盛り上げるディスプレイを、一夜のうちに仕上げてしまふのがこの業務です。年間で最も忙しいのは11月~年末で、クリスマスの大きなツリーを設置するのも大変ですが、12月25日の閉店後はそれを撤去して、一気にお正月の雰囲気一色にするのには、徹夜作業が求められました。

 

 製作部門はデザイナー、それを形にする絵描きさん、その絵を立体にする大工さん、それを現場に運ぶ運転手、そして設置するのが人足や私どもアルバイトの仕事でありました。

 人足は殆どが高齢者か地元の悪ガキ。余り裕福でない人が多く、デパートの設置の場が食料品売り場ですと、陳列の食品を失敬する者も居りました。地元の悪ガキはほぼ全員、私ども高校生や大学生を僻んだ目で見てをり、「いじめ」までは行かぬまでも「いけず」はよくされました。その場を見かねて、人足の古株の老人が間に入つて悪ガキをたしなめ、私を庇ひ、珈琲牛乳をおごつてくれたこともありました。運転手の中にも気概の在る人が居り、「為にならん我慢はせんでもええで」と励ましてくれました。

 

 さういつた夜間の仕事が無い日は、会社も至つてのんびりしてをりました。人間、暇な時は碌なことを考へません。

 悪ガキの親玉が「今日は仕事ないから掃除や!」と、私をゴミ集積場に入らせ、中にある資材から釘、押しピン類を抜く作業をやらせました。風が強い日だつたのでオガクズが風で舞ひ上がり目に塵が入ります。その上、材木にはあちこちに針金の先端が出てをり、私は1時間くらひの間に掌に裂傷を負ひ、おまけに運動靴だつたので釘を踏み抜いてしまひました。

 

 これは「潮時」だな…と思つた私は、この怪我の治療を理由に翌日から休みを取り、そのまま辞めることになりました。口惜しい思ひはしましたが、短い間ではあつたものの親切な人も多く、人生勉強をさせて頂いたなあと今では思ひます。ちなみに1日8時間労働で3,000円、1970年代前半には結構良い給料でした。

 

 このアルバイトの期間でもう一つ忘れられないのは、大丸へ設置に行く途中、昼食に立ち寄つた元町高架下の台湾料理「丸玉食堂(東店)」です。

 

 

 此処で食した焼き飯(当時350円)、汁そば(200円)の旨いこと。その後、永く私の取つておきの店となりました。パクチー(香菜)を初めて知つたのもこの店でした。残念なことに平成25年末、閉店となりましたが、香腸(ソーセージ)、豚タンを肴に昌興酒を飲み、老麺(卵入りアンかけそば)で仕上げをする喜び…台湾らしい庶民的な美味は今も忘れ難いものがあります。

 

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