「このハゲー!」の豊田真由子議員による謝罪会見が話題になつてをります。過日、事の発端となつた彼女の6月の事件に際して、それがしの超個人的な「意見」と申しますか社会的要望を語らせて頂きました。お時間の許される方は6月23日付の当ブログをご参照下さいませ。
さて此の度の会見にて、彼女の性格を具現するかのやうな釣り上がり眉を眺めてゐるうちに、にわかに小学生時代の特異な記憶がムクムクと入道雲の如く甦つて参りましたので、今号より、しばしお付き合ひ下さいませ。
私が神戸市東灘区の某小学校2年生の時、4年生になつた兄はY女性教諭(後にH姓となる)が担任となりました。縷々報告させて頂いてをりますやうに兄は成績優秀のため学級委員長の常連であり、確かこの4年生の1学期にも委員長に選出されたと記憶致しをります。
厳しい先生は多々いらつしやいましたが、このY教諭の厳しさは段違ひでした。
昭和38、39年当時、宿題を忘れたり、教室でヘマをした児童が教室前の廊下に立たされる光景などは、日常茶飯事でありました。このY教諭は、宿題忘れが3度繰り返されますとゼッケンを着けさせるのです。読者の皆様も運動会などで、クラス色別に前後に番号の付いたものを着た経験がおありかと存じますが、左様、あれですわ。その前後の番号部分に「なまけ者」と大書されてゐるのです。さらに其れを着けたまま、帰校時まで過ごさなければならないのです。
兄の級友などは、ゼッケンが恥づかしくて(当たり前ですが…)背中にランドセルを背負ひ、腕を前に組んで隠しながら、時が過ぎるのを待つこともあつたさうです。
上記のやうに厳しくはないまでも、罰則や肉体的な懲罰(ビンタなど)は、今でこそ人権上、教育委員会により厳重に禁止されてをりますが、当時は教育現場の自由裁量として黙認されてゐたのでせう、それが普通の学校生活だつたのです。
さて学級委員長といふ職務は、或る意味、担任教諭の命令伝達役とか幇間(たいこもち)役を余儀なくされる場合があり、兄も学校では悩みつつもその役を果たしてをつたやうです。その所為でせうかY教諭には特別目をかけて頂いたやうでした。当然、それを妬む級友も居たらしく、陰口を叩かれてをつたやうですが、その陰口がイジメに繋がることを許さぬ雰囲気が漂ふほど、Y教諭の厳しさは教室、否、学内全域にまでその脅威を及ぼしてをりました。
当時のこのY教諭の年恰好、好き嫌ひは別にした美貌、他を圧する眼光…、つり上がつた眉、その諸々が、今思へば冒頭あげつらひました豊田真由子議員と「瓜二つ」なのでありました。異なる処と言へば、豊田女史がヒステリックな甲高い声で相手を罵倒するのとは異なり、Y教諭は低い声で、その分、相手を逃がさず追ひつめる迫力で勝つてゐたやうに思ひます。
Y教諭は、2年後に私どもの学年の担任となられますも、幸にして私が其の学級に当たる事はありませんでした。以前述べたやうに、現在私は小学校の学級同窓会(クラス会)の幹事を務めをります。そこで耳にする同期生の昔話によれば、担任となつたY教諭の恐ろしさは抜きん出てゐるやうです。
これより始まるY教諭とトリトン家との縁が、必ずしも本人等の意志に関はりなく、想像を遥かに越ゑる展開を見せることにならうとは、神ならぬ身の知る由もありませんでした。 (つづく)